新・内海新聞 75号

留学生がやってきた

もう10年になるでしょうか?会社の利益の一部を使って東南アジアの子供たちの教育支援を行っています。
そしてその国はスリランカ。
スリランカというより以前の国名のセイロンといった方が判る方も多いかも知れません。

なぜスリランカなのかということをお話したいと思います。

私の友人が高校生だった頃、AFS(アメリカンフィールドサービス)という交換留学制度を使ってニュージーランドに一年間留学をしました。
そのニュージーランドで知り合ったのがスリランカから留学でやってきた同じ高校生でした。
二人は仲好くなり、ニュージーランドに留学してきたのに日本の事の方に興味を持つことになり、交換留学プログラムが終了すると、日本のある大学に留学をしてきました。
そしてその大学も卒業し大学院に進学します。
優秀な成績で卒業し帰国。彼はスリランカの文部省に就職します。
もっと日本人にスリランカの事を知ってほしい。
スリランカの子供たちにもっと日本という国に接するチャンスを作りたい、そう願い彼はあるボランティア団体をつくります。

「スプートニク」と言います。

スプートニクとは、かつてソ連が打ち上げた人類初の人工衛星の名前です。
世界の平和という意味の言葉と、彼の祖父が技師としてスプートニクの開発に関わっていたことなどから、その団体名をスプートニクと名付けました。
スリランカ国内にスプートニクが設立されたのですが、これを世界中に広げたいと考えた彼は、高校時代にニュージーランドに一緒に留学していた私の友人に連絡を取ってきました。
日本にもスプートニクジャパンを設立してほしいと。

そして10年程前にスプートニクジャパンは設立され、私がその理事長に就くことになります。
先程出てきたAFSとはニューヨークに本部のある世界的な留学支援団体です。
10年程前というとスリランカ国内は内戦が激しく、交換留学には不適合ということで、留学候補地から除外されていました。
しかし、内戦も収束し、国内が安定してきた頃、AFSから私の方に留学生支援の依頼がありました。
留学生の渡航費や諸々の資金を援助していただける企業を探しています。
スリランカは内戦の影響で日本からスリランカへの留学希望はまだ少ないのですが、スリランカから日本への留学希望が非常に多いのです。
受け入れだけの形になりますが、AFSの支援企業になっていただきたい、ということでスタートしています。

スプートニクの活動をご紹介いたしますと、日本側では年に2回のピースクエストというチャリティーコンサートを原宿で開催しています。
また様々なチャリティーバザーや勉強会、フリーマーケットの参加などを行っています。
一方、スリランカではスプートニク教育学院を設立して現地での日本語教育に力を入れています。
この日本語教育には理由があります。
どうすれば日本の方々にスリランカに興味を持ってもらえ、訪れてもらえるようにできるのだろうか?
そんな悩みの中から生まれたのが、日本語教育です。
もしもスリランカで日本語が通じるようになれば、きっと数多くの日本人がスリランカを訪れてくれるだろう、スリランカに対して興味を持ってくれるだろうと考えたからです。
そんな中、地元スリランカの高校生の中で日本語能力の高い優秀な人を毎年一名日本に留学できるというジンテック教育基金というものを作りました。
高校生はAFSを通じて日本にやってきます。そして約一年間、国内のホスト高校に通い、ホストファミリーにお世話になります。

今から8年前のことです。その年もスリランカから一人の女子高校生が日本にやってきました。
その高校生の名前はラクミニ。ニックネームはシャシです。
シャシは、入国後すぐにホスト高校のある福島県の郡山に移動しました。
そして、夏休みにお礼と挨拶に会社に訪問してくれたのです。
社員の前で立派な日本語でお礼を言ってくれました。
そして皆でランチに出かけた時、彼女はこんなことを言い出しました。
「東大の赤門が見たいです。」
どうしたの?
「私もいつか東大に入学して勉強をしたい。」
じゃあということで、赤門に連れていき見学をしてもらいました。
その時、ふと思いました。

日本も今から100年程前の幕末から明治維新のころ、当時の若者の多くが欧米に留学し、むさぼるように言葉や技術や文化を吸収していきました。
以前、「長州ファイブ」という映画を見たことがあります。
長州五傑といわれ、幕末にロンドンに留学した5名(井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝))の話です。
長州ファイブとは、留学先のロンドンの市民が名付けたそうです。
お金もなく苦労しながらも、一生懸命勉強する姿は、ロンドン市民の感動を呼んだそうです。
シャシのもっともっと勉強したいという18歳の少女の姿勢は、その幕末の日本の若者を彷彿させるものがあります。

一年が経ち、シャシはスリランカに帰国していきました。
それから数カ月ほどしたころ、シャシから手紙が届きました。
留学の時にお世話になったお礼が書かれていました。
そして、東大に行きたいという気持ちが書かれてありました。
しかし、彼女は父親がいなくて母親と弟の母子家庭。
自分が働かなければ家族が生活できない現実があり、でも勉強をあきらめることができない。
なんとか自分に奨学金を出してもらえないだろうか?
という文面でした。
交換留学のAFSに確認したところ、できれば奨学金はやめていただきたい。
AFSの趣旨は現役の留学生に関する支援に限定していて、留学後の支援はトラブルも多いのでできればやめていただきたいとのことでした。
そして、それから数カ月がたったころ、再び手紙が届きました。

同様の内容でした。
ここからは個人の責任でやっていただくのであれば問題ないという言葉をAFSからいただけたので、個人的に奨学金を出すことにしました。
月額3千円、年間3万6千円です。
スリランカ国内の年収は約8万円なので、3万6千円はそこそこの金額になります。
奨学金支給のシャシとの約束は、大学で一番になること、でした。
そして数年の年月がたち、今年2013年の9月にシャシは大学を卒業しました。
彼女は約束通り、首席での卒業です。
しかも入学してから卒業までの全ての試験で一番でした。
彼女は約束を守ってくれました。

1951年9月6日、日本の独立を討議するサンフランシスコ講和会議の会場、オペラハウスの壇上に一人のスリランカ人がいました。
第二次世界大戦で日本が敗戦し、その日本を連合国、特にソ連が日本を分断し分割統治するべきと強硬に発言してきました。
その時、戦争に巻き込まれた数十カ国の国の代表もオブザーバーとして参加しており、当時セイロンの大蔵大臣であるJ.R.ジャヤワルダナ氏が演説を許されました。
彼はブッダの言葉を借りて「憎しみは憎しみで拭い去ることはできない。
日本に自由を与えるべきだ。」と演説しました。
「何故アジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。
それは我々の日本との永年に亘るかかわり合いの故であり、又アジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬の故であり、日本がアジア諸国民の中でただ一人強く自由であった時、我々は日本を保護者として又友人として仰いでいた時に、日本に対して抱いていた高い尊敬の為でもあります。」
敗戦国に対して、利害を超えて「尊敬」と「共感」を表明し、日本の独立を強く支持するJ.R.ジャヤワルダナ氏の言葉に、会場はうち静まりました。
演説が終わると、万雷の拍手が沸き起こり、彼のこの演説が、講和会議の流れを変え、日本の国際社会復帰を大きく後押ししたのです。
日本はソ連、ポーランド、チェコスロバキアを除く48ヶ国と講和を結び、国際社会復帰を果たしました。

もしスリランカという国がなかったとしたら、今の日本は無かったかも知れません。