新・内海新聞 86号

得体の知れないお父さん

「とにかくお父さんは得体の知れない理解できない人」
西澤先生の視察番組は、非常に考えさせられるものがありました。
私の友人で、新幹線でしか買えない「WEDGE(ウェッジ)」という雑誌の中にコラムを書いています。
その「WEDGE(ウェッジ)」に「拝啓オヤジ殿」というコラムを書いています。

登場するのは父48歳アパレルメーカー部長。娘17歳高校2年生です。
「お父さんは矛盾だらけの人です。
しばらく私はお父さんを無視します。
私の意見にちゃんと答えたら態度を改めてもいいっすよ。」
からはじまります。

「お父さんは言います。モノは大事にしろ。
粗末にするな。まだ使えるだろう。もったいない・・・その通りです。

私は簡単に捨てたり買い換えたりしてきたし、貧しい人たちから見たらなんと大バカモノって映るでしょう。
でもお父さん、あなたはモノを大切にしていますか?
そして、あなたの会社ではモノを大切に扱っていますか?

色・デザイン素材・機能の異なる服をつくってるけれど、それって毎年出す必要がありますか?
「もう時代遅れです」調の広告を大々的にPR。
洋服って何年も着れるじゃないですか?時代遅れの服はどうしているの?
貧しい国々の人に送っているという話も聞いた事ないし、リサイクルしているって話も聞いた事がない。
そのあたりどうなってんの?

そして、この「時代遅れ」っていう言葉・・・時代に乗り遅れるな、時代に遅れたら損をする。
泣きを見る奴は時代に乗り遅れた奴ばかり。
勝つ奴は時代に敏感なんだっていう言い方、気に入らないよな・・・。

お父さんが言う、その「時代」というのは単なる比較だけなんだよ。
他人と比較してどうとか、同僚と比較してどうとか、他の会社と比較してどうとか・・・
お父さんが部長に昇進した時も、時代を見抜いているからと自慢してたけど、昇進できなかったら時代遅れなわけ?
熱心に読んいでる本や雑誌は勝ち組がどうの、あの会社のボーナスがどうのと比較した奴ばっかりじゃん。

もうお父さんが敷いたレールの上を歩くのはまっぴらご免。
お母さんとの結婚もまさか、いろんな女性たちと比較して選んだんじゃないだろうね。
愛情とかは二の次三の次で・・・、それが本当だとしたら私は何なの?

とにかくお父さんは得体の知れない理解できない人。私の疑問にちゃんと答えてください。」

 

フラスコ産業

まず、フラスコ産業を探せ・・・とはどういうことなのでしょうか?
最初に言い出したのは戦闘機「隼」を開発した糸川英夫博士だといわれています。
フラスコというのは化学の実験で使用するガラス製の容器です。
このフラスコが学校や研究室では使われるものですが、そんなに大きな需要はありません。
今年のヒット商品の横綱にフラスコが選ばれるようなこともありません。

いったい誰がつくっているのでしょうか。
それは、ちゃんとフラスコを製造しているガラス容器の会社があるのです。
フラスコの業界は、そんなに数も出ないし、使う数量も高が知れています。
でも、学校や研究室などでは必需品なのです。

小さな市場ですので、競合の新規参入もほとんどありません。
しっかりと安定した需要があり、必需品。
またこんな小さな業界に何十社も競争相手はいません。せいぜい数社。
マーケットとしては狭小ですが、しっかりとした需要にたった小さな独占企業です。
ビジネスで独占は大きな安定要素です。
このように、小さくてもしっかりした需要をとらえて独占することで安定が得られるということの例えです。

実は、顧問先のある会社で営業会議が行われました。
その企業は大変業績も良く、成長しています。
その分野の市場は既に70%程度他社の商品も含めて普及してしまっていて、残りの領域が30%弱しかありません。

これでは、これまでのような毎年10%の成長という訳にはいきません。
会議の中で、自社ビジネスの将来性が不透明ということになりました。
残された道は、海外進出か新規事業で新たなマーケットをつくっていくしかないという意見が出ました。

しかし、私はその話を聞いていて「フラスコ産業を探せ」を思い出しました。
それほどまでに普及しているということは、しっかりとしたニーズがあり、それに応えている証拠です。
しかも、成熟した市場なので新たな競合も参入しにくい。
これは裏を返せば立派な安定市場です。

市場は今後大きな成長は無いかも知れないけれど、需要は有り続ける。
しっかりとした技術を持ち続けていれば、その企業はきっと存在し続けると思います。
市場規模を拡大してゆくことだけが成長ではありません。
限られたマーケットの中でのシェアを伸ばしてゆくという考え方です。
マーケットとは、市場全体が成長している時よりも、成長がストップして停滞した時こそチャンスといえます。
シェア拡大の戦略を徹底することで、小さなマーケットでも一番になることはできます。

「小さくても一番」という言葉があります。
とにかくその業界で一番になれ!ということです。そして一番になるまで、余計なものをそぎ落とせということです。
たとえ話で、中華料理店をオープンしたとします。
でも既に数多くの中華料理店は存在し差別化ができません。

そんな時、餃子に注目して餃子専門店にします。
さらに餃子の種類を極端に増やします。餃子だけで1000種のメニューをつくります。
既にそんな餃子店はありません。さらに餃子は生で提供され、客席で自分たちの目の前で焼くことができます。
焼くのに自信がなければ店員さんがやってきて手伝ってくれます。
ここまで絞り込んで特化してくると、もうそんな餃子店は他には有りません。
他にないとなると、お客様の頭の中にインプットされます。

成長の要素は、拡大だけではなく、停滞や収縮というネガティブの中にも存在します。
ある大手紳士服の企業で、全国展開している会社があります。
この会社は新店舗を出すとき、人口の少ない田舎の小さな町を選びます。
こんな小さな過疎の町には、紳士服店なんて一店舗あれば十分!という場所を狙っているのです。
この企業が最初に進出して店舗を出せば、小さくても一番!で利益を上げると思います。
そして競争相手があとから、この地区に進出してきてもこの小さな町で二店舗を維持することは不可能。そうなると競争相手も、怖くて思い切って進出はできないものなのです。結局、最初に進出した企業の独占ということになります。
これも見方を変えればフラスコ産業といえるのではないでしょうか?

フラスコ産業を狙うと、地味で成長性もそんなに無いかも知れませんが、はっきりとしたニーズを掴み、安定しているという点では立派な経営手腕だと思います。
ここで最も大切なものは、明確なコンセプトづくりといえるかと思います。
利用者が、生産者から出されるメッセージが明確に理解できること・・・というのはとても大切なことだと思います。
企業のコンセプトというものが、一番の代表的な「企業理念」です。

日頃、企業理念というのは、関心も薄く、あまり気に止めていないかも知れませんが、これはもっとも重要なことなのです。
会社を創業する時には、商品やサービスを考える前に、この企業理念を決めなければならないともいわれるほどです。
企業理念とはその会社のフィロソフィーです。
そしてそれを言葉で表現したものが企業理念です。

この企業理念は「意思決定のものさし」といえます。
何かの経営の決断をしなければならない時、それをやるべきか、やめるべきか?
この判断の答えがすべて経営理念の中に詰まっています。
この経営理念にそって判断するだけです。
仕事が順調な時は、経営理念は引き出しの中に片づけておいても良いくらいです。
しかし、一旦ピンチになった時、この経営理念が役に立ちます。

前述のフラスコ産業もこの経営理念に則っていれば何の不安もありません。
目の前に何か大きな問題が立ちはだかったとき、その前線にいる従業員は不安です。
どういう方向に進むか分からないからです。
この時に、トップの社長の考え方が明確で、経営理念が示されている時「きっと社長はこう判断するに違いない。」
と従業員は理解してくれます。
お客様も経営判断を取られるに違いないと信頼関係が生まれます。

新・内海新聞 85号

離島の高校

【少子高齢化と過疎化】ネットでこんな記事を見つけました。
「島根県立隠岐島前(どうぜん)高校。松江市からフェリーで3時間かかる。
日本の大学に行くためには日本の高校がいいと考え、祖父から高校のことを教わった。
夏休みに帰国。いくつかの高校を見て回った。
生徒が目を合わせてあいさつしてくれたのが島前高校だった。
温かさを感じたのが決め手だった。」

「高層ビルが立ち並ぶドバイとは正反対の、隠岐の自然の豊かさに驚いた。
地域全体が学校。ドバイの学校よりはるかに小さい。」

隠岐島前高校は離島ながら、生徒数が2008年度の89人から今年度の156人へとV字回復し、注目されている。
高校はかつて統廃合の崖っぷちに立っていた。
97年に77人いた入学者は08年には28人に落ち込んだ。
高校が消えれば、15歳以下の若者がいなくなる。地域にとっては、死活問題だった。

「島の最高学府を守れ」。
島前の3町村長や住民らが08年に立ち上がり、高校の魅力化構想をつくった。
通いたい高校にすれば生徒は増えるはず。「ピンチはチャンスだ」と考えた。
いくつもの試みが「逆転の発想」から生まれた。

「小さいことはよいことだ」と10人前後の少人数習熟度別授業を始めた。
「田舎は都会にはない自然や人のつながりがある」と地域に根ざしたカリキュラムをつくった。
生徒は船のダイヤ改定案から、島の太陽光発電まで考える。
「仕事がないから島に帰れない」ではなく、「仕事をつくりに帰りたい」という人を育てようと、課題を解決する力をつける教育を目指した。

島にはコンビニもゲームセンターもない。
だからこそ「工夫する力や粘り強さが磨かれる。」と都会から生徒を受け入れる「島留学」を始めた。
この春入学の「留学生」は31人。
8月の島での見学会には全国から親子140人が参加した。

島根県立大学連携大学院の藤山浩(こう)教授(中山間地域研究)は話す。
日本の高校は『蜘蛛(くも)の糸』の主人公のように、成長神話の糸にすがり、人より先に上へ上へと上がっていけと教えてきた。
『東京すごろく』をよしとして生徒を都会に送り続けた。
島前高校は人とつながり地域で生きる別のモデルをつくっている。

高校がいま取り組むのはグローバルな視野を持ちながら、足元のローカルな地域社会をつくる「グローカル人材」の育成だ。
10月には2年生がシンガポールに5日間出かけ、シンガポール国立大生に島の課題を英語で発表する。
離島での資源リサイクルは、冬場に観光客に来てもらうには……。
都会の島のシンガポールで、田舎の島の高校生が挑む。
「おもしろいじゃないですか」と常松徹校長。
なぜ、この高校は人を引きつけるのか。
カギは、都会から移住した人々の知恵を借りたことにあった。

■「よそ者」が島の知恵袋
8月末の夜7時半。島根県立隠岐島前(どうぜん)高校近くの海士(あま)町の公民館に、生徒が30人ほど集まった。
公立塾「隠岐國(おきのくに)学習センター」のゼミに参加するためだ。

センターは、海士町など島前地域3町村が離島の生徒たちに学習の機会を広げようとつくった。
156人の島前高校生のうち、110人が通う。
この日のテーマは「自分が地域にできること」。
海士町を視察に来た熊本県山都(やまと)町の議員ら20人とグループに分かれ、話し合った。

司会役は、センター長の豊田庄吾さん(40)。
リクルートの関連企業を経て、企業や学校の研修を担う会社で講師をしていた。
2008年、中学と高校への出前授業で島に来て、町からスカウトされた。
一度は断ったが、「もう一度だけ」と言われ、翌年、島に来た。
移住を決めたのはその日の夜、繰り返し口説く島の人々の本気さにかけてみようという気になった。
出身の福岡県大牟田市の風景が、島前地域に重なった。
三井三池炭鉱の廃鉱前、商店街がシャッター街に。
同級生も次々転校していった。
「日本のふるさとを元気にしたい」。その思いに火がついた。
高校の危機を乗り越えようと3町村が知恵を求めたのは、島外の人々だった。

ソニーを辞めてきた岩本悠さん(34)もその一人。
中学校の出前授業で来島し、町から相談を受けた。
「ここは将来の日本の縮図。未来の教育モデルをつくりたい」と決心した。
町役場に席を置きつつ、高校の「魅力化コーディネーター」として動く。
地域の課題を考える科目では人脈を生かし、海外の大学や企業に協力を求める。

トヨタ自動車、IT企業のDeNA、教育産業のZ会、ベネッセ……。
人が人を呼び、若者が大企業から転身し、島に集まってくる。
田舎暮らしにあこがれてではなく、自分のしたいことに挑む人が多い。

ジョセフ・クアッシさん(29)はガーナ出身。
「都市への人口集中はガーナも同じ。島前地域から学びたい」とやってきた。
高校で国際交流を担当する。

「『よそ者』、『若者』、常識を覆す『ばか者』が島を変える」。
高校のある海士町の山内道雄町長(76)はそう語る。

人口減に悩む各地の自治体が雇用を優先するのに対し、海士町はさらに「人づくり」を重視。
島外から来る生徒の寮費を一部負担し、新しい寮も建設中だ。
地域の人材を育てる高校の狙いは実りつつある。

隣の島の出身で法政大3年の近藤弘志さん(20)は高校時代、島前地域への旅を企画する活動に参加して、地域の料理を出した。
「喜ばれ、自分の食べていた物に誇りを感じた」。
将来は地元の島にカフェを開き、島内外がつながる場を作りたいと言う。

高校2年の原恵利華さん(17)は「地域の課題を考える授業が、むちゃくちゃ面白い」。
地元の人と囲碁で交流する。街づくりの会社を起こすのが夢だ。
町が高校をもり立て、高校が町の未来をつくる。
60年減り続けた町の人口は増加に転じ、2年間で52人増、2339人になった。

山内町長の目標は「教育の島、子育て島」で未来を開くことだ。
高校の魅力化、社会人向けの学びの場などを盛り込んだ町の計画は、内閣官房の地域活性化モデルケースに選ばれた。
名付けて「世界一の『ド田舎』モデル」という。

■「高校が地域の生命線」
地域で活躍する人材を育てようという高校は、全国各地に登場しつつある。
特徴は
①地域資源を生かしたカリキュラム
②全国募集
③自治体による塾の設置 だ。
沖縄県立久米島高校は伝統芸能の「組踊(くみおどり)」に取り組み、地域の歴史を学ぶ。
町が公営塾や寮をつくる計画を練る。

兵庫県北部の豪雪地帯に位置する県立村岡高校(香美町)も、山の自然を生かし、マウンテンバイクやスキーなどを学ぶ「地域アウトドアスポーツ類型」を全国募集する。
青山学院大教育人間科学部の樋田大二郎教授(教育社会学)は、こうした動きの背景として、各地で高校が統廃合され「高校が地域の生命線」との意識が地元に広がったこと、正解のない問題を解く力の育成が求められるようになったことがあると見る。
「都会の担い手を育てる教育が人口減少社会を生んでいる。地域と結びつく高校の流れは広がり、太くなるだろう」と話す。(編集委員・氏岡真弓)

■「選ばれる田舎」、問われる努力
今、「人口減」がクローズアップされているのを見て、全国の意識が島根に追いついてきた、と感じている。
4月に県の人口が70万を割るなど、ここで教育や過疎対策を取材した8月末までの3年余りは、島根県が人口減対策の先進地になっていると実感する機会が少なくなかった。
その一例が、高校の魅力化プロジェクトだ。
型破りな発想で全国から人を集める隠岐島前高校に刺激を受け、県は2011年度から、中山間地の高校にも助成を始めた。
地元中学生が減るなか、県外募集に力を入れ、今年度は、夏休みに中山間地の高校を見学できるバスツアーも企画した。
中国山地の一角、人口3500の川本町にある島根中央高校。生徒数230人余りだが、今年度、県外生が28人に倍増した。
保育所などの就労体験先を町が調整したり、地元の意見を参考に学習サークルを立ち上げたり。地域とのつながりが深まったという。
「地域で支える」。「地域に根差す」。
この数年、地域と高校にそんな意識が高まっているのを感じる。

「これからは田舎が選ばれる時代」と取材で聞いたのが印象に残っている。
人口減を解決する対処法を見つけることは簡単ではないかもしれないが、「選ばれる田舎」になるためには、地域が持つ力を高める努力がこれまで以上に必要になってくると思う。
(2014年9月21日朝日新聞より)

 

この記事を読んで考えさせられるものがあった。
私の子供のころは日本中こんな感じだった。
その村の中に馴染んで学校があり、友人たちがいて、就職も進学もあった。
教育というテーマで雇用が生まれる事は素晴らしい。
「仕事がないから島に帰れない」ではなく、「仕事をつくりに帰りたい」という人を育てよう、素晴らしい発想です。

新・内海新聞 84号

ある気づき

以前、ジンテックのある半蔵門に三城(さんじろ)
という高級なお蕎麦屋さんがありました。
営業は11時~15時まで。
平日だけのランチだけの営業でした。
メニューもなく、一種類のコースしかありません。
座ると日本酒が一合出てきます。
それに合わせて辛み大根のおろしときのこの和え物、そしてわさび漬が出てきます。
それが済んだ頃に、ざる蕎麦が出てきます。
大きな土瓶に蕎麦湯が出てきて、大皿に山盛りの野沢菜。
最後に親指大の花豆を甘く煮込んだデザートというコースで2000円です。

半蔵門で20年営業した後、生まれ故郷の長野県松本市に移転してしまいました。
松本市内で今も当時と同じスタイルで営業されています。
そんなお店を切り盛りされているのが、柳沢依美さんという女将です。

通っているうちに、この女将と大変仲良くなりました。
このお店の顧客は、政財界の重鎮ばかりで、
さまざまな分野のトップの方を見てこられたので、人を見る目が高く、
結構厳しい意見も言ってくれる、私にとっては大切なご意見番でもあります。
お店に行くたびに、お互いいろいろなことを話し合います。
先日、そんな松本にある三城に行った時、
柳沢依美さんが、興味深い話をしてくれました。

依美さんのお母様は、105歳まで長生きされたのですが、
後半は痴呆が出て大変だった様です。
その時、トイレだけは絶対に自分の力で行くこと、というルールを作って、
徹底して守らせたそうです。
何も用事がなくても、トイレの前を通った時は
必ず、立ち寄ることとキツく言ったそうです。
その結果、痴呆もそんなに酷くならなかったそうです。

そんな依美ちゃんが、「先日、アタシ、大発見したの!」と、
興奮気味に言い出しました。

その頃、お蕎麦屋さんをしながらお母さんの面倒を看るのは大変で、
友人達が気の毒がって、ご飯のおかずや様々な生活用品を送ってくれたそうです。

それから10年以上経って、今度はその彼女達の母親が痴呆になってしまったのです。

依美ちゃんは、あの頃の恩返しにと、
松本の地元の野菜や三城のお酒や蕎麦や蕎麦つゆを、
彼女達宛に宅急便で送ることにしたのです。それも毎週金曜日に!

毎週届く依美ちゃんからの荷物に、痴呆の母親は、
「いいわねぇ・・・いいわねぇ・・・」
と、羨ましそうに覗き込むのだそうです。

そうだ、そんなに楽しみにしているのなら、
そのお母様の名前で送ってあげよう、と思いつきました。

毎週届く自分宛の荷物。

お母様達は毎週楽しみに待つ様になりました。

そうしたら、どうしたことでしょう!
痴呆が治まり始めたのです。

今ではしっかりと普通の会話ができ、デイサービスも再び行ける様になったのです。
それも荷物を送っている全員が同様に改善したのです。

アタシ、大発見したのよ!

「痴呆症には、決まった日にその人の名で郵便や手紙を送り続けること。」

つまり、誰かに愛されていると本人達が自覚することが、
痴呆の症状が改善する・・・ということ。
それはハガキでもいいの、電話でもいいの。
何処かのお土産でもいいの。

大切なことは、本人名で送ること。
そして、毎週決まった曜日にきっちり届けること。

実は、とっても簡単なことだったのよ!

なるほど・・・今回も依美ちゃんに教わりました。

先月、亡くなった私の恩師サンリオの創業メンバーの友近忠至さんも
87歳で多磨に一人暮らしでした。
奥様も先に旅立たれ、お子様たちが細々とお世話されていますが、
日常の生活は自分でこなしておられました。

そんな友近さんのお宅をお邪魔した時、一人のご婦人が来られて、
郵便物を開封し、用事はカレンダーに書き込み、
その日のおかずを持ってきて冷蔵庫に入れ、溜まった食器を洗う・・・

たったこれだけのことで30分くらいの仕事量です。
毎週2、3回だけ決まった曜日に決まった時間に訪問し、お声がけをして帰られます。
毎週、習慣化していくリズムが規則正しい生活を意識します。
この訪問は、生前の奥様が、自分にもしものことがあったら、
このように毎週訪問してほしいと頼まれたそうです。
毎週来るのは他人ではありますが、
今でも奥様に愛されていると自覚できる瞬間でもあります。

人に愛されているということ、
これは人の精神衛生上とても大切なことなのかも知れません。

新・内海新聞 83号

大恩人

当社ジンテックの元役員で株主でもあった友近忠至さんが亡くなった。
昭和2年生まれの87歳。
非常にお元気で、つい2週間前にも一緒に蕎麦屋に行っていろんなお話をしたばかりでしたので驚きました。
友近忠至さんは、キティちゃんで有名なサンリオの創業メンバーのおひとりです。
サンリオの前身の会社が、大赤字で経営難に陥った時、出版社の平凡社が出資し経営を軌道に乗せました。
その時、平凡社側から常務取締役として着任したのが、友近忠至さんです。
この創業時の裏話が書かれた本がPHPから「サンリオの奇跡」というタイトルで出版されました。昭和54年の事です。
私はこの本を何度も何度も夢中になって読みました。
そして、ここに登場する友近忠至さんにどうしてもお会いしたいと思っていました。
しかし、何のツテもなく諦めていました。
しかし、運命のいたずらなのか、15年も経ってからようやくそのチャンスが訪れます。
それは大変不思議な出会いでもありました。

今からちょうど20年前、私は会社経営に悩んでいました。そんな時、ある人を紹介されました。
その人は、私が持っている名刺を全部持って来いという。
言われるまま、全ての名刺を持っていきました。
何千枚もある。
すると、この部屋に全て表を向けて並べろと言う。
並べられた名刺をその人は暫く見ていたが、あの名刺とこの名刺だけ取って、あとは片づけろと言った。
「両手に持った名刺の左手の名刺の人が右手の名刺の人を紹介する。
そして、右手の名刺の人がお前を助けてくれる。」
左手の人は顧問先の社長で、右手の人は弁護士のAさんだが、よく知らない。
お礼を言って帰ろうとすると、
「まだもう一人見える。60歳代のおじいさんが見える。
お前がこの人に気付けたなら、会社は大いに発展する。
気付かなかったら会社は滅びる。目印は右足を引きずって歩く人だ。」
そう言った。
そんな老人は知らない。

一ヶ月後、左手の名刺だった顧問先の社長を訪ねた。
いろいろ話をした後、来月からもう来られないかもしれないと告げた。
親会社との関係で、この会社を解散することになると思うと伝えた。
その社長は、それは困ったと言い、事情を聞かせて欲しいと言われるので、今の状況を正直にお話した。
そうすると、
「そういう問題は、弁護士のAさんですよ。」
と言い出した。
驚いた。
その晩、その弁護士の先生とお会いしました。
その結果、様々なサポートをして頂き、無事その難局を乗り切ることができたのです。
本当にこの出会いに感謝しています。

さて、もう一人、60歳代のおじいさんと出会うと予言していた。
それから半年後、無事新会社を創り、親会社から独立し、新事業が動き始めていました。
ある取引先の会長と夕食をすることになりました。
二人っきりで話題の乏しい私は仕方なく愛読書の「サンリオの奇跡」という本の話を始めました。
もう百回以上読んだだろうか。
その本に登場する友近忠至さんにとても会いたいが、雲の上の人だとも言った。
一時間ほど私の話を黙って聞いていた会長はこう言った。
「わかったよ、内海さん。その友近さんは私の兄貴分のようなお方、紹介してあげよう。」
驚いた。
一ヶ月後、銀座のお店でお会いした。
私はすぐに右足を見ました。
足を引きずるような様子はありません。

この人ではない。

それから、この友近さんと何度かお会いすることとなります。
ある日、
「内海ちゃん、これからは健康管理が大切。
それには断食が一番。伊豆の伊東にある人参ジュースだけで断食するサナトリウムがあるから一緒に行こう。」
と誘われた。
そこは断食と人参ジュースだけで、することといえばあとは散歩だけ。
毎朝二人で散歩に出かけました。
その日は曇っていました。
友近さんが私の前を歩き、私は後を追った。すると突然右足を引きずり始めたのです。
「先生!どうされたのですか?」
「いやぁ、内海ちゃん。元々右膝が悪くてな、いつもテーピングしてるんやけど、こんな気圧の谷がくるとどうしても疼くんよ。」
驚いた、やはりこの方だった!
その場で、頭を下げて役員就任と株主になって頂くお願いをしました。

それから会社は一度も赤字にはならず増収増益を続けた。
この話を、2週間前、友近さんとご自宅の近くの蕎麦屋で食事をしながら、初めてお話したのです。
「そうか、あんたとは不思議な因縁で結ばれているんやなぁ。」
「ワシの人生で内海ちゃんに出会えたことが一番の思い出になった。」
と、意味深い言葉が今も耳に残っている。
友近忠至さんの口癖があります。

「見たことは、したことにならない。
聞いたことは、したことにならない。
言ったことは、したことにならない。
ただ、したことだけが、したことになる。」

新・内海新聞 82号

絶体絶命の大事件勃発

平成14年8月、とんでもない事件が発生します。
そのころはTACS事業も軌道に乗り、順調に成長を続けている時期でもありました。
今思えば心のどこかに隙があったのかも知れません。

平成14年8月、兵庫県尼崎市でNTTの電話交換機が落ちました。
それは、どんどん連鎖して波及、大阪市北区や中央区の電話交換機が落ちて行きました。
8月と言えばお中元の時期で、大手百貨店の問い合わせの電話がすべて繋がりません。
銀行のATMもストップ。
証券会社の株価表示パネルもストップ。
もちろん110番や119番の緊急電話も繋がらない状況になりました。

このころは携帯電話がかなり普及し、この携帯電話に向けて「ワン切り」という手法を用いた風俗電話を仕掛ける業者が増えていました。
適当な携帯電話番号に電話をかけ、着信履歴をワザと残し、折り返し掛け直させ、そこには卑猥な録音音声が流れるように仕組んであります。
この音声は有料で、その料金を支払えと、着信履歴を手掛かりに恐喝まがいの電話をかけて振り込ませる手口です。
いわゆる「ワン切り事件」です。

平成14年8月の事件も、このワン切り事件なのですが、これまでと違う手法でした。
コンピューターに何本もの電話回線を接続し、自動的に作り出した携帯電話番号に一方的に連続して電話をかけていくシステムを導入したことでした。
その場所がNTT尼崎局の近辺だったのです。

まず、尼崎局の電話交換機がダウン。
続いて連鎖的に大阪市福島区、北区、中央区と連鎖してダウンしていきました。
NTTも何が起こったのか理解できず、パニック状態になっていました。
原因を突き止めたNTTはすぐに対策に走りました。

まず、接続約款を変えることでした。
それまでは、電話の契約をすると、電話契約者が申し出ない限り、電話の解約ができないようになっていました。
これを変更したのです。
通話を目的としない、機械的な連続発呼が規定量を超えた場合、NTTからその契約を解除することができるように変更したのです。
同時に国会でもこの問題が取り上げられ、有線電気通信法という法律の改正に向けて、準備委員会が動き始めました。
通話を目的としない発呼で、機械的に連続して大量に発呼する場合、懲役刑と罰金の両方が科せられるものです。
まさに絶体絶命でした。
そして、NTTはその様な電話の利用をする業者に対して、内容証明で警告文書を送付し始めました。

当社のTACSは、卑猥な音源を流すような番号に導くワン切りではありませんが、NTTから見れば、同じように見えてしまうのです。
発呼したその先で何をしているのかなどというのはNTTには判らないからです。
当然、当社のTACSもワン切りの一種であるとみなされました。

当時、TACSシステムはレンタル方式で、契約企業の社内に設置し、その企業の契約したNTTの電話回線を通じて発呼していました。
当然NTTは、異常な発呼を発見すると、その電話番号から電話回線の契約企業を識別します。
そして、その企業の総務部あてに内容証明の書類が郵送されました。

その内容証明には、反社会的な電話の使い方をしている。
これ以上続けるのであれば、契約を解除する。
そして解除された場合、再び契約することができない・・・という様な内容が書かれていました。
この様な内容証明が、当社のTACSを稼働させている企業に向けて郵送されていきました。

驚いたのは、内容証明を受け取った企業総務部です。
総務部は当社のTACSの事など知りませんので、この話は役員まで上がり、大事件になりました。

担当者から当社に電話が殺到しました。
「御社を信用して契約しているのだから、なんとか解決してほしい。」
という内容です。
しかし、それはなんともなりませんでした。
接続約款を変えられては、何もできません。
社内で連日対策会議を開きました。
発呼のスピードを落として、目立たないように続けよう・・・とか、別会社を作って、そちらにシステムを移して、本社を守ろうとか、徹底的にNTTと戦おうとか、様々な意見がでました。

しかし、その時に私が決断した方法は「TACS事業を休止する。」でした。
当社とNTTとでは、信用力も資金力も違います。
到底勝ち目はありません。
管理部に対して、今日でTACS事業を休止した場合、この会社はいつまで持つか?
資金ショートする日付を計算させました。

そのXデーは、平成14年12月10日。
私は、覚悟を決めました。
そして、重要な顧客に向けて、幹部が手分けして、事業を休止する事の説明に走りました。

私は、名古屋にある某自動車メーカーに向かいました。
ここは一番の大きな売上を上げていた最重要クライアントです。
名古屋に到着したのは、既に午後6時30分を過ぎていました。
事前に電話で訪問の予約を取っていたものの、こんなに急に、更に夜遅くに幹部がやってくるにはただ事ではないと感じられていたと思います。

名古屋の本社に到着すると、応接室に通され、いきなり単刀直入に本題に入りました。
「当社の事業を続けることが困難になりました。」
尼崎で発生したワン切り事件のこと、接続約款が変更されたこと。
内容証明等、契約先にご迷惑がかかること・・・などなどすべて正直に話しました。

「我々の事業を強引に続けることは、結果的に契約企業様にご迷惑をおかけしてしまいます。
これは当社の経営理念に反することです。
事業を休止する結論になりました。」
担当部長は、黙って聞いていました。そして
「30分ここで待っていてもらえますか。
今、社内に残っている役員を至急集めて対策会議を開きます。
そこで結論を出すのでしばらく待っていてください。」
私は、誰もいない会議室で待っていました。

30分を過ぎたころ、部長が降りてきました。
「我々はいつまで待てばよいですか?その白黒がつくのはいつごろですか?」
どうせ12月10日には会社は倒産してしまうのだから・・・そう思い、
「12月10日です。」
と答えました。
「判りました。その日まで当社は待ちましょう。
さらに予定通り、このプロジェクトの準備は続けます。
またこのプロジェクトのために全国のディーラーの社長を集めた会議を明日計画していますが、それも予定通り開催します。
是非、勝って下さい。
我々は応援していますし、お待ちしています。」
そう言って握手していただきました。

エレベーターホールまで送って頂き、その別れ際に
「いやぁ、驚きました。
自分の会社を犠牲にしてでも、クライアントを守ろうという姿勢。
役員たちもそこに感動していました。応援していますからね。」

帰り道、溢れる涙が止まりませんでした。
翌日、全国の重要クライアントへ同様に説明に行っていた幹部からの報告が上がってきました。
どれも私が受けた対応と同じでした。
ある電力会社は、
「なんなら当社がNTTを訴えてもいい。」
と言って下さいました。
これらのクライアントの契約内容やご意見を大きなファイルにまとめ、私はある場所に向かいました。

総務省電気通信局です。
課長に面談を申し入れました。
そして、当社のビジネスモデルや契約先企業の利用方法等を説明しました。
課長はその場で、NTT東日本に電話をしたのです。

「ジンテックという会社を知っているか?
聞くところによると反社会的な活動はしていないように思われる。
今回の約款改定や法改正で大きな影響を受けるようだが、そこも含めて検討されているのか?」
という様な内容でした。

翌日の夕方、NTTの法人営業部というところから部長以下6名の方々が当社を訪問しに来られました。
「過去の御社を調査させて頂きましたが、一度も事故を起こしていらっしゃらない。
そこで、今後の事ですが、双方で回線を監視し、安全利用に努める・・・という方向で協力してやっていきましょう。」
ということになりました。

その後、有線電気通信事業法が改正されました。
13条2項に予定通り、ワン切りに関する禁止条項が加えられました。

そして、その特記事項として「ただし、電話番号クリーニング事業はここより除外する。」と明記されました。
この年の12月決算は、事業を休止していた分売上減になる予定でしたが、お得意様企業が、ご祝儀だと通常の何倍もの発注をしていただき、最高の売上を記録することができました。