新・内海新聞 61号

当社は、スリランカという国の子供たちのために教育支援を続けています。
彼ら彼女たちは、日本に憧れ、日本語を学び、日本に留学してきます。
スリランカの国民一人当たりの年間平均所得は900米ドル以下。日本円で7万円弱です。

しかし、教育熱心で識字率は95%を超え、日本への留学を希望していますが、経済的な理由からなかなか実現しません。
スリランカの優秀な高校生が一年間日本の高校で勉強できる費用を社会貢献予算として計上して提供しています。
また数年前のインドシナ半島の大地震による大津波によって数万人と言う人々が流され、多くの子供たちが孤児となりました。
その孤児の中の特に女の子たち二十数名ですが、一緒に生活が出来る孤児院「ガールズホーム」を建設しました。

アジアの遠くにある極貧で小さな島国のスリランカ。なぜ、スリランカという国を支援し始めるようになったのか?
それが以下に書くコラムです。

スリランカという国がなかったら、スリランカ人が支援してくれなければ、今、こうして平和に暮らすことは出来なかったかも知れません。

 

【日本の分割統治計画とスリランカ①】

かつて、敗戦後、連合国は第二次世界大戦中、日本が明治以降に獲得した地域を連合国によって分割する方針を打ち出していました。

【ソ連】

南樺太(ポーツマス条約で獲得、内地、1943年3月31日までは外地)

千島列島(樺太・千島交換条約で獲得、内地)

朝鮮北緯38度線以北(日韓併合条約で獲得、外地)

関東州(旅順・大連)(ポーツマス条約で獲得、租借地。1950年代に中国へ返還)

【アメリカ】

朝鮮北緯38度線以南(日韓併合条約で獲得、外地)

沖縄(琉球処分、内地)

奄美(連合国は沖縄の一部と解釈)

旧十島村は、軍政下に置かれた島(現十島村)とそれ以外の島(現三島村)に分割された。

小笠原(明治に領有宣言)

委任統治領南洋群島(ヴェルサイユ条約で獲得)

【中華民国】

台湾(下関条約で獲得、外地)

これらは、1945年(昭和20年)の日本降伏後に速やかに実行されました。

しかし、本土決戦の回避により、上記以外の日本本土を構成する北海道・本州・四国・九州及び付属島嶼は、連合国軍最高司令官総司令部(通称GHQ、実質は米国)によって1952年(昭和27年)まで統一した占領統治下におかれ、分割されることはありませんでした。

この計画では、これらの本土地域も細かく分割することになっており、この項目で指す分割とは、この計画を指しています。

日本分割占領案については、早い段階から連合軍将兵にも伝わっており、中華民国軍の兵士の証言では、ルーズベルトが中国軍を日本占領統治に参加させることを決定したとの話が兵士たちの間に伝わると、多くの中国軍兵士がこれを喜び、日本に上陸した際にどのような行動をとるかについて話し合ったといいます。

この日本分割統治案からわが国を救ってくれた国があります。アジアの極貧小国のセイロン、現在のスリランカです。

 

1951年、第二次世界大戦における連合国の諸国と日本国との間の戦争状態を終結させるため、サンフランシスコ講和条約の席に、セイロン(現在のスリランカで当時まだ英連邦内自治領)の大蔵大臣だったJ.R.ジャヤワルダナ氏が代表として出席されました。

席上、米英以外の諸外国からは、「日本に今、この段階で平和を与えるのは、もってのほか。」「日本は南北に分割して統治すべき」「日本を独立させるのは時期尚早」などなど、厳しい制裁措置を求めるさまざまな議論・意見が出る中、J.R.ジャヤワルダナ氏は、仏陀の言葉ダンマパダを引用し、「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」と信じていると演説を行い、対日賠償請求権の放棄を明らかにするとともに、日本を国際社会の一員として受け入れるよう訴えたのです。
この演説が当時日本に厳しい制裁措置を求めていた一部の戦勝国をも動かしたといわれ、その後の日本の国際復帰への道につながる象徴的出来事となったのです。
サンフランシスコ講和条約締結後、世界で一番早く正式に日本と外交関係を結んだのもスリランカでした。

この演説を受けて、当時の吉田茂首相も「我が国、日本は後世まで、この大恩を忘れてはならない。」と言ったといわれています。

以下が、ジャヤワルダナ氏の演説です。

「賛同を勧誘されている平和条約草案について、セイロン国政府の見解を、この51か国の集会前に提出する機会をえられましたことを、私は大いなる特典と考えます。

私の声明は我国が本条約を受け入れる諸理由から成り立っていますが、本条約に対して向けられたいくらかの批判を反駁する企てもあります。もっとも私は、私の国の政府を代表してのみ話すことが出来るわけですが、しかし日本の将来に対して一般的態度の中でのアジアの諸国民の感情を、私は表明できると主張します。

私は現在、会議で考慮中の条約の最終草案の公式化にまで持って行った出来事について、語る必要はありません。アメリカ代表ダレス氏とイギリス代表ケンネス・ヤンガー氏は、1945年8月の日本の降伏文書協定から始めて、それらの出来事を詳細にかつ丁寧に我々に示されました。しかしながら、次の事柄は述べておいてもとよいと思います。

すなわち、本条約の草案を採用すべきであるという手続きに関しては、四大強国の間で深刻な意見の衝突があったことを述べておいてもよいと思うのです。

ソ連は、四大強国だけが、すなわちアメリカ、イギリス、中国及びソ連の外相会議だけが、それを引き受けるべきであると主張し、そしてもし条約草案作成のために他の国々が加入するのであれば、拒否権を保留されなければならないと主張しました。

イギリスは、自治領は相談を受けるべきであると主張し、アメリカはこれに賛同しました。両国はまた、対日戦争に参戦したすべての国々と相談することを支持しました。これらの諸国の間ではまた、違った考慮から、条約の実際の条件に関する意見の相違がありました。

ある国は新しい軍国主義的日本の台頭を恐れ、他の国は日本の侵略によって生じた災害と恐怖を忘れかねて、意見がわかれました。

あえて意見として述べますが、完全に独立した日本のための主張がはじめて提出され、考慮されたのは、1950年1月に開催された連邦外相のコロンボ会議においてでありました。

 

【日本の分割統治計画とスリランカ②】

このコロンボ会議は、日本を孤立させたケースとして考えるのではなく、南アジアおよび東南アジアとして知られている地域の一員として考えられました。世界の富と人口の大部分を含み、最近になってようやく自由を回復した国々からなる南アジアと東南アジア、それらの国々の諸国民は数世紀なおざりにされた結果、いまなお苦しんでいます。

このコロンボ会議から二つのアイディアが浮かびあがりました。一つは独立国日本のそれであり、他方は南アジア、東南アジア諸国民の経済的、社会的開発の必然性で、それを確保するためにコロンボ計画として現在知られている計画が着手されました。ケンネス・ヤンガー氏は、コロンボ会議の後に連邦諸国長官の運用委員会が条約草案の仕事にかかった経過を説明され、そしてそのあとにアメリカ代表ダレス氏と相談されたことを説明されました。今我々の前にある条約は、これらの協議と折衝の成果であります。

私の政府の見解のある部分がそこに主張されていますが、私の政府の見解でないものも主張されています。私は現時点において、日本と進んで和平を討議したいとする諸国の間で達成できる同意の最大の共通な尺度を告げていると、私は主張します。

日本に対する態度において、セイロン、インド、そしてパキスタン等のアジア諸国は日本は自由でなければならないという最大の考えによって動きました。本条約はその考えを完全に具現していると私は主張します。日本の自由という事柄について付帯的な他の問題があります。

すなわち自由は本州、北海道、九州、四国の主要の島々に限定されるべきか、あるいは近隣のいくつかの小さい島々まで広げるべきかであるか。もしそうすべきでないのなら、これらの島々はいかにすべきか。台湾は1943年のカイロ宣言に従って中国に返還されるべきか。もしそうすべきであるなら、中国のどちらの政府へ? 中国は平和条約会議へ招くべきか。もしそうであるなら、どちらの政府を?賠償は日本から強要すべきか。もしそうなら金額は?日本が自国の防衛を組織するまでは、どのようにして自らを防衛するのか。

日本の自由という中心問題について、我々は究極には同意することが出来ました。そして条約はその同意を具現しています。他の問題については際立った意見の相違がありましたが条約は大多数の見解を実現しました。もしこれらの諸問題のあるものが違った方法で解かれていたら、私の政府はその方を好んだでありましょう。

しかし大多数が我国に同意しないという事実は、自由と独立した日本の中心概念を含む本条約に、我国が調印するのを控える理由にはなりません。最初に私が言及しました関連のある事柄は、日本が自由になれば解決不可能ではありませんが、日本が自由にならなければ解決不可能であると我国は思います。

自由の日本は、例えば国連組織を通じてこれらの問題を世界のほかの自由諸国と討議することができ、はやめに満足すべき決議に到達できましょう。本条約に署名することにより、我々は日本をしてそうすることができるようにさせます。すなわち日本が中国を承認すると決定するならば、中国政府と友好条約を結ぶことができるようにと、そして日本をしてインドと平和友好条約を結ぶことができるようにさせると私が述べるのは、大変うれしいことであります。

 

 

【日本の分割統治計画とスリランカ③】

なぜアジアの諸国民は、日本は自由であるべきだと切望するのでしょうか。
それは我々の日本との永年にわたる関わり合いのゆえであり、またアジア諸国民が日本に対して持っていた高い尊敬のゆえであり、日本がアジア諸国民の中でただ一人強く自由であったとき、我々は日本を保護者としてまた友人として仰いでいたときに、日本に対して抱いていた高い尊敬のためでもあります。

私は、この前の戦争の最中に起きたことですが、アジアのための共存共栄のスローガンがいま問題となっている諸国民にアピールし、ビルマ、インド、インドネシアの指導者のある人達がそうすることによって自分達が愛している国が開放されるという希望から日本の仲間入りをした、という出来事が思い出されます。

セイロンにおける我々は幸い侵略を受けませんでしたが、空襲により引き起こされた損害は、損害賠償を要求する資格を我国に与えるものであります。しかし我国はそうしようとは思いません。なぜなら我々は釈迦の言葉を信じていますから。釈迦のメッセージ「憎しみは憎しみによっては止まず、ただ愛によって止む」はアジアの数えきれないほどの人々の生涯を高尚にしました。釈迦のメッセージこそが、人道の波を南アジア、ビルマ、ラオス、カンボジア、タイ、インドネシアそれからセイロン(スリランカ)に伝え、そしてまた北方へはヒマラヤを通ってチベットへ、支那(中国)へそして最後には日本へ伝えました。これが我々を数百年もの間、共通の文化と伝統でお互いに結びつけたものであります。

この共通の文化はいまだに存在しています。日本の指導者達から、大臣の方々からも、市井の人々からも、寺院の僧侶からも、日本の普通の人々はいまもなお、平和の釈迦の影の影響のもとにあり、それにしたがっていこうと願っているのを見いだしました。

我々は日本人に機会をあたえてあげねばなりません。そうであるから我々は、ソ連代表のいっている、日本の自由は制限されるべきであるという見解には賛同できないのです。
ソ連代表が加えようと欲する制約、例えば日本が自由の国であれば当然そうする資格のある国防軍を維持する権利に加える制限といったもの、そして、彼が提議するほかの制限は、現在ここの会場におられる代表の大多数の方々にとって受け入れ難いものにするばかりでなく、この会議に出席されなかった国々にとってさえも、受け入れることが出来ないものにします。
もし再びソ連がカイロとポッダム宣言に反して、日本へ返還した琉球諸島と小笠原諸島を欲しがるなら、それではなぜ南樺太は、千島列島もまた日本へ返還されないのか?

私は興味をもって、次のことに注目します。

すなわちソ連の修正案は、日本国民に基本的表現の自由、新聞および宗教礼拝の出版の自由、政治上の見解の自由、および公開の集会の自由を保証しようと要求しています。
ソ連の国民自身でさえも享有したいと心から執着したいであろう自由をです。

(出典:スリランカ大使館資料)