新・内海新聞 54号

先日面白い話を聞きました。京都大学在校生に対し、ある調査会社が恋愛に関する調査を行ったそうです。この調査は継続的に行われました。数年後に別の調査部隊が社会人となって働いている卒業生に対して収入の調査をしたそうです。その結果、驚くべき結果が見つかったのです。

学生時代に大恋愛や多くの恋愛経験を持つ学生の多くは、社会人になった後、その収入が平均を上回っていたのです。①恋愛とは相手のことを知ろうとする気持ちとその努力。②自分の気持ちを伝えようとする気持ちとその行動。これらが自然と行われ訓練されたことになるというのです。即ち、これはビジネスにおいても同様で、もっとも重要なスキルといえます。お互いを理解しようとする姿勢が仕事に生かされ、それが成果として現れ収入に反映されたと結論付けています。

新円切り替え

大変昔の話ですが、新円と旧円というお札が存在した時代があった。戦後の世の中を一気に復興させるために、大量のお札を印刷した。その結果、モノとお金のバランスが悪くなりインフレに突き進んで行くことになる。

当時のことをwikipediaで調べてみると・・・
「新円切替(しんえんきりかえ)は1946年2月16日夕刻に幣原内閣が発表した戦後インフレーション対策として行われた。金融緊急措置令をはじめとする新紙幣(新円)の発行、それに伴う従来の紙幣流通の停止などに伴う通貨切替政策に対する総称である。1945年8月15日の終戦によって、戦時国債の発行や物価統制によって抑えられていたインフレが爆発した。戦争が終わった後の後始末や、復興のためにお金はいくらあっても足りなかった。戦費捻出のために発行された戦時国債の償還、軍需物資に対する支払い、進駐軍による円の大量印刷、復員兵の帰還費用の捻出、戦後復興させるための資金供給、これらに対して、日銀は日本銀行券を刷って刷って刷りまくって対応した。その結果、カネにみあったモノが不足する状態となりインフレが発生してしまった。

1946年の金融緊急措置 1946年(昭和21年)2月16日(土)、「金融緊急措置令」が発表され、週明けの月曜日から実施。これは預金封鎖と新円切替を同時に行うことにより、流通している日本銀行券の量を減らして、急激なインフレにストップをかけようとした。また、GDPの3倍に達した借金を返済するために国民の財産を国に移す目的もあった。金融緊急措置の内容は、あらゆる預金を封鎖する。流通している旧円を一定金額に限り新円に切り替える。それ以外は金融機関に全て強制的に預金させ、一定金額(世帯主:1ヶ月300円、家族1人に1ヶ月100円)だけしか新円による引き出しを認めない。3月2日までに交換しないと旧円は無効となるため、金融機関に行列ができた。10万円を超える資産に対して25%から90%の財産税をかけられた。旧紙幣に証紙を貼り付けて10月まで代用させるなどの措置が取られた。

これにより、日本銀行券の発行高は1946年3月末には4割に減少したものの、財政赤字のたれながしが継続されたため、効果が長続きせず、半年後の9月末には元の水準に戻ってしまった。戦後復興のために、鉄鋼と石炭をまず復興させ、その後、他の産業に広げていく傾斜生産を行うなかで、大量の資金が供給され、再びインフレが発生してしまった。大蔵省や日銀は再び預金封鎖を行うことはできなかった。

GHQは1948年12月18日、吉田内閣に対して、経済安定9原則を発表した。これはインフレを抑えるためのデフレ政策であった。1949年3月7日、GHQの経済顧問であるジョセフ・ドッジにより、財政金融の引き締め(ドッジ・ライン)が実施された。強烈なデフレ政策により、戦後のインフレは止まったものの、失業や倒産が相次ぎ、不況となってしまった。日本経済が戦後復興するのは、朝鮮戦争に伴う特需であった。」
これが、新円切り替えの概要です。

今は、この様な時代ではないかも知れませんが、ハードランディングを選べば、このような事態も起こりえるという事例です。今、電子マネーが普及した結果、銀行封鎖や新円への切替えはいとも簡単に出来てしまう世の中になっています。電子マネーでしか、日常の買い物が出来ず、一日の使用量が制限される・・・なんてことが起こったら大変です。当時はお金があっても、引き出せないために、餓死する人まででる時代でした。しかし、かつてこの新円切り替えの時代を察知して、大きく成長した人たちがいます。

安藤明

安藤明さんは、愛媛県松山に本店を置く「明屋書店(はるやしょてん)」の創業者です。小さな貸本屋を日本でも有数の大書店として作り上げた方です。その、明屋書店を大成長させるエンジンになった方が友近忠至(ともちかただし)氏です。先日、久しぶりに友近忠至さんに会いました。84歳ですがまだまだお若い。その友近さんが、こんなことを話し始めました。

「内海ちゃん。新円と旧円を知ってるか?よーく聞いておきなさい。これから必要になる。私が30代の頃に勤めていた愛媛県松山市にある明屋(はるや)書店の話だ。創業者の安藤明さんは若い頃、ある女性と駆け落ちして大阪から松山に流れてきた。彼は、仕事もなく三味線を持って闇市の飲み屋を流しの歌手として歩き、小銭を集めながら生活したのだ。

その頃、世の中は大混乱しインフレだった。大衆の唯一の楽しみは流行歌を口ずさむこと。しかし、その流行歌もラジオで流れていてよく聞き取れない。安藤明さんは、その時閃いた。「歌本をつくろう!きっと皆が喜んでくれる。」なけなしのお金を集めて、流行歌の歌本を作ったのです。もちろんガリ版刷りの安物だけれど、それは、飛ぶように売れた。やがて、彼は宝くじ売り場の女性に声を掛けた。・・・

「この歌本を10冊だけ置かせてもらえませんか。売れたらお金を回収にきます。そして口銭を差し上げますから」・・・

ある日、その宝くじ売り場の前を通ると女性が大声で呼んだ。

「お兄さーん、お兄さーん、あの歌本、もっとないの?あっという間に売り切れたわよー。何冊でも売ってあげるから、あるだけ持ってきなさい!」・・・

彼の手元にはお金が集まり始めた。しかも、それはすべて新円。世の中はお金がなくて餓死者が続出する時代。彼には運が回ってきた。松山市内の一等地である銀座に150坪の土地を購入した。すべて新円なので何でも買えた。そこで安藤明さんは、貸本屋を始めた。戦後の焼け野原から集めた本に表紙をつけ貸し出した。活字に飢えた人々がやって来た。どんなものでもいい、古本2冊を持ってきたら、一冊新しい古本を貸してあげるという方法で、焼け野原に落ちている古本をどんどん集めた。それもまた大いに儲かった。やがてその貸本屋は、松山で一番大きな書店となった。・・・判るか?この話、ようく心に刻んでおきなさい。いつかきっと役に立つ。」 そう言ってにこりと笑った。

今も思い出すこと

私が20代の頃、地方の卸売市場で働いていました。山田青果という卸の八百屋です。主にキャベツ、きゅうり、かぼちゃ、ジャガイモ、白菜、大根が中心の八百屋で、その頃大変繁盛していました。毎朝4時に店に入り、9時まで買い物にやって来た街の八百屋のご主人のトラックに荷物を運ぶ仕事です。一箱が約10kgのキャベツ15箱以上を台車に積み、裏の駐車場まで坂道を上がっていく仕事で体力的に大変厳しいものです。

私は9時過ぎからは中華料理のコックの仕事があったので、ついでに店の材料の仕入れもしていました。そんな仕入れ先に、高尾商店という葱専門の問屋がありました。私は、週に2回ほど大きな葱の束を仕入れていました。そのお店は、高尾さんというおばあさんが一人で仕切っていたのです。ある日仕入れに行くとおばあさんが私に声をかけてきました。

「にいちゃん、感心やな。よう続くな。たいがい一週間で辞めるで。もう一年以上続いてるやろ。大したもんや。褒美にあんたに金儲けのコツを教えたろか。なんやと思う?」

私はしばらく考えて、

「早起きは三文の徳いうから、答えは早起きと違うか?」

そうしたら

「にいちゃん、惜しいなぁ。答えはその正反対の早く寝ることや。その理由をおしえたろ。世の中には、2つのものしかあれへんねん。それはな、必需品と嗜好品というもんや。必需品は、それが無かったら生きていかれへんちゅうもんや。それから、嗜好品いうんは、それがあったらもっと便利やとか楽しいいうもんや。朝、起きてから午後6時までに使うお金はな、その殆どが必需品に使うんや。それから、午後6時から後に使うお金は、その殆どが嗜好品に使うことが多い。それは、無くても生きていけるいうことや。そしたらどうする。お金をためるには、午後6時から後の嗜好品のお金を使わんようにしたらええやろ?それは、無くても生きていけるからな。午後6時からのお金を使わんようにする一番手っ取り早い方法は早く寝ることや。でも、いつも12時に寝てるもんが、急に6時に布団に入っても寝られへん。毎日毎日、早く布団に入って早く寝る癖を作っていくことが大事なんやで。
そやから、夜ははよ寝て朝早くから働くのは、一番ええ心がけや。お兄ちゃんはそれをしてるやろ。そやからさっき褒めたったんや。感心や。」

これは、私にとってとっても大切な話しです。