新・内海新聞 48号

昔、大学のとき下宿していました。そこには80歳くらいのおじいさんがいて、残念なことに痴呆症になっていました。私たちは、賄いつきで契約していたので晩ご飯は母屋で大家さん家族と一緒に晩ご飯を頂きます。その時、下宿人たちにはテレビが無かったので母屋で見せてもらうのが楽しみで賄いにしてもらっていました。ある日テレビを見ていると、そのおじいさんが来て勝手にしゃべり始めました。

「私は今日の晩ご飯も覚えていません。今日のお昼ご飯も覚えていません。昨日の晩ご飯も覚えていません。18歳の村祭りは覚えています。15のお正月は覚えています。17の花火は覚えています。君たちはいいなぁ~」皆、その言葉に興味を持ちました。聞いてみると30歳や40歳や60歳や70歳の区別が付きません。でも10代の頃の話は毎年のことを明確に話してくれました。22歳位までのことは覚えているようでした。なるほど、思春期から22歳くらいまでの記憶は生涯を通じて残り影響を与えるのだということを学びました。だからこそ悔いの無いように生きなければと皆で確認したのでした。

友近忠至のシステム思考(4)

前回に引き続き、友近忠至さんのエピソードです。愛媛県松山市に本店を置く明屋書店の番頭に転職した友近さんの仕事は、雑用に追われて毎日大忙しです。社長の安藤明さんからは毎日無理難題が持ち込まれ、それらをすべて逃げないで解決すると決めた友近さんは休みなど有りません。しかし、今になってその頃のことを振り返ると、あの時があったから今の自分があると目を細められます。そんな友近忠至さんのエピソードの中で有名な話ですが「駐輪場事件」というのがあります。この駐輪場事件がきっかけで、システムというものを真剣に考え始めたということです。最も当時はシステムなどという言葉も無く、うまく物事が流れる仕組みとでも言えば良いのでしょうか?

それは次のようなお話です。銀天街というアーケードの真ん中辺りにあった明屋書店には、毎日のように夕方になると、中学生たちが自転車で慌ててやってきます。それは新発売の週刊漫画雑誌を立ち読みするためです。学校が終わると自転車で駆けつけ、書店の前にある空きスペースに留めていきます。最初は良いのですが、どんどん自転車が増えて、後からやって来た中学生は自分の自転車を、間に押し込むので、「ガッシャーン」と全部の自転車が横倒しになってしまいます。そうすると両隣のお店から、邪魔になるとか、危険だとかクレームを言われ、仕方なく友近さんが出て行って、その自転車を整理しています。それが毎日何回もあります。

とうとう友近さんは、安藤明社長に直訴します。「安藤さん、このままでは仕事になりません。私は自転車整理のために銀行を辞めてきたわけではありません。定年退職したような方でよいので、自転車の整理係を雇ってもらえないでしょうか?」しかし、返事はNO!でした。「そんなことのためのお金は使えない。君が何とかしたまえ。」結局、友近さんは毎日夕方になると自転車の整理をしていました。そんな時、あることを思いつきました。この銀天街は月に一回だけ全店が休業になる日があります。友近さんは、その日に商店会長を訪ねあるお願いをしました。そして商店会長の承諾を得て、ある行動にでました。

書店の前の公道に白いペンキで斜めに線を引き始めたのです。線を引き終わるとその両側に看板を立てました。そこにはこう書いてあります。「自転車は白線に沿って留めてください。ここが一杯の時は、裏にも駐輪場があります。」と書いてあります。書店の裏にも白線が何本も引いてありました。さて翌日の夕方、予想通り中学生たちがやってきました。するとどうでしょう。皆、白線に沿って留めています。割り込んだり、無茶な駐輪は誰もしていませんでした。友近さんは、結局その日から、自転車の整理から開放されたのです。

友近さんは、この時のことを振り返って「この時になんとなく気付いたのかも知れない。当時はシステムなんていう言葉は無かったけれども、誰もが何も考えずに同じ結果を生み出す仕掛けづくりというのだろうか、後にこれをシステムと呼ぶようになるのだけれど、何か手応えがあったような気がする。私は中学生には何も教えていない。でも彼らは勝手に動き始めた。システムというのは、何もコンピュータを使うことではないのだよ。まず、誰でも自然に出来る仕掛けが大切。なんだ。」これがシステム思考に目覚めた瞬間かも知れません。

その後、友近さんはコンピューターと戦い続けることになります。これは、コンピューターを否定しているのではなく、一番うまく使うにはどうすればよいのかという考え方の戦いです。「コンピュータとはえらく消化の早い機械らしい。恐ろしいスピードで情報を消化してしまう。しかし、それ以上に偏食が激しく、コンピュータが食べやすいように調理してやらないと全く受け付けない。この調理の仕方がミソなんだ。この調理の仕方をシステム化することで、コンピューターはどんどん消化してくれるはず。」そういう考えに至ります。

友近忠至のシステム思考(5)

明屋書店の業績も順調に伸び、新卒の社員を採用することになりました。地元の商業高校から推薦で面接にやってきます。今年も数名の高卒の新入社員が入社しました。入社してしばらく経ったころ、友近さんはあることに気付きます。

お昼休みに経理で入社したA子さんだけは同期の人たちとは離れて一人でお弁当を食べています。「はて、何故だろう。」と不思議に思った友近さんは、もう一人の同期の女子社員に聞きました。他の人たちと一緒に楽しそうにお弁当を食べていたからです。彼女はこう言いました。

「A子さんは、しゃべらないし暗いから一緒にいたくないんです。彼女は高校のときからあんな感じでした。」今度はA子さんに声をかけました。「君は皆と一緒にお弁当は食べないの?」「私は一人でいるのが好きなんです。」とA子さん。再びさっきの社員たちのところに戻り、こんな質問をしました。「A子さんって高校の時はどんな人だったの?何か得意なものとか無かったの?」「算盤は早かったね。そうそう卓球も上手です。高校の卓球部のキャプテンもしてましたから。」「卓球ねぇ・・・。」友近さんはあることを考えました。早速ある出版社に電話をしました。

「こちらは松山の明屋書店の友近でございます。誠にお世話になっております。今回、販売コンクールで当店が一番になりまして懸賞をいただけるとお伺いしたのですが、つきましては頂きたいものがありましてご検討いただきたくお電話を差し上げた次第です。はい、それは卓球台なんです。卓球台を一台頂戴できればと思いまして・・・」こんな交渉を出版社と行い、卓球台をもらうことになったのです。

「A子さん。実はね、書店の販売コンクールで一位になった懸賞で卓球台をもらえることになったのよ。あんた高校で卓球部のキャプテンやってたらしいやないか。どうや、明屋書店で卓球部をつくってくれへんか?」A子さんは大喜びで快諾しました。当時は卓球ブーム。A子さんが裏の倉庫で一人で練習していると、毎日何人か見学に来て少しずつ部員が増えてきました。週に何日か練習日を決めて、みんなA子さんの指導で腕を上げ始めました。何ヶ月かしたころ、銀天街で卓球大会が行われることになりました。もちろんA子さんのチームも出場します。A子さんの大活躍で数多くの強豪チームを打ち破り、遂に明屋書店チームが優勝したのです。その日から明屋書店の中でA子さんは人気者になり、性格も明るく振舞えるようになったそうです。

「人って不思議なもんだなぁ。人っていうのはね、良い時もあれば悪い時もある。出来のいい奴もいれば悪い奴もいる。出来の悪い奴がいれば、皆あいつが悪い、足を引っ張っていると言う。でもそんな出来の悪い奴を出来が良いようにできたとしたら、その人だけではない、店全体の底上げに繋がるもんなんだ。好き好んで出来が悪いわけじゃない。周囲も「悪いなぁ」と思いながら非難している。もしも自分があの立場なら会社は何をしてくれるのだろう?と考えている。その時の対応次第で、その当事者も周囲も蘇るものなんだ。」そう言って目を細めていました。

 

戦略家 空海

現在、上野の東京国立博物館で「空海と密教美術展」が開催されています。にわかに密教ブーム。以前、長崎県にある長瀧山霊源院(通称滝の観音)に行ったことがあります。空海が唐への留学を終えて帰国し九州の地を放浪している時に建立したと伝えられます。この空海という人は、とても興味深い。空海は平安時代初期の774年に生まれといわれています。804年に遣唐使の20年間の留学生として大陸に渡ります。当時の留学は命がけでした。船で日本海を渡るのですが、大概、荒波にのまれて難破します。その時の遣唐使には最澄も乗船していました。四艘の船はやはり難破。しかし、空海は何とか陸にたどり着いたが、そこは名も無き港町。外国人の空海には文化も違うし言葉も通じませんでした。海賊の嫌疑がかけられその港に拘留されてしまいます。そこで空海は、長官宛に筆で嘆願書を書きます。その余りの達筆さに地方の役人も一目見てこの人物がただ者ではないことを悟り直ちに中央に伝令を走らせます。そして嫌疑が晴れて長安に入ります。空海はもうその頃には言葉をマスターし、流暢に喋ることができるようになっていたそうです。

そして、数ヶ月かけて、持っていったお金をすべて使って、多くの弟子と各地に残る中国密教の経典の書写を始めます。師の恵果和尚からは阿闍梨付嘱物や仏舎利、刻白壇仏菩薩金剛尊像などを与えられます。そして遂に中国密教の大きな二つの流れ「大日経」系と「金剛頂経」系をの継承後継者として認められます。その後、中国密教は途絶え、日本だけにその正統は生き残ります。10年以上の滞在を義務付けられる留学をたった一年ほどで帰国してしまった空海は都に戻れず、九州の地を放浪していました。見つかれば死罪です。

空海は、一策を考え唐で得た経典や宝物の目録を都に送り続けます。日本ではとうてい手に入れることの出来ない密教の奥義に遂に天皇からの許しが出されたのです。そして空海は高野山に真言宗の法灯を掲げます。空海とは、きわめて戦略家である印象を持ちました。写真は空海が建立した滝の観音の滝です。滝の中腹に観音像が掘られているのですが、水流が多くその像が見えない時は、その横にある大きな岩盤に観音像が現れます。この観音像は肉眼では見えず、写真だけに現れるという不思議な像です。○印がその観音像です。