新・内海新聞 42号

東京に単身出てきたのは、今から23年前。大学時代にもこちらに来ていましたが相模原だったので東京という街はその時が初めてになります。会社を作り売上を上げるために毎日飛び込み営業をしていました。その時にふと気付いたことがあります。

それは訪問先の担当者が私に質問することは二つ。「取引先はどんな会社ですか?」「事務所はどこにあるのですか?」でした。奇妙でした。いつもこの2点を気にされる。その理由は後に解ります。取引先の質問の真意は大手企業や同業他社がすでに契約しているか?ということで、その上場企業の審査をクリアできる信用力があるのか?ということ。住所の質問の真意は家賃でした。住所から家賃を推測し、そこから資金繰り状態を推測されていました。東京では、この二つの条件は大切であるということを知りました。

銀の匙

随分前に、この内海新聞を読んだ経営コンサルタントの方が私にこう言われました。

「読んでいるうちに、何か懐かしい想いが蘇ってきました。なぜだろうと考えたとき、昔、中学校で読んだ銀の匙という本の雰囲気が漂っていたからです。銀の匙は、著者の中勘助(1885-1965)が自伝風に描いた本です。叔母の背中におぶられて、叔母の目線で世の中を見てきた中勘助が、幼い子供の感覚で素直に感じたまま描いたといわれています。そんな雰囲気を感じます。」

そういわれて、いささか過分なお言葉で恐縮してしまいました。その時、この中勘助の「銀の匙」という作品にとても興味を持ちました。本自体は小さな文庫本ですぐに読めてしまうものですが、その内容はタイムスリップしたような、いつの日か忘れてしまっていた子供の頃の記憶が蘇ります。もちろん時代背景は違いますが、素直な感覚は共通するものがあります。

この「銀の匙」という本が最近急に話題になってきているそうです。それは、「奇跡の教室」という本が出たことがきっかけです。NHKでも特集が組まれました。エチ先生と「銀の匙」の子供たちというサブタイトルが付いています。私の故郷の阪神地区は非常に教育熱心な地域で、私立の強豪進学校が沢山あります。もちろんそのトップに君臨するのが灘校です。続いて甲陽学院、六甲学院、関西学院。国立では神戸大学教育学部付属校。女子では神戸女学院。このあたりの学校は6年間の中高一貫教育のところが多いのです。毎年、東大、京大に多数の合格者を輩出します。

さて、この灘校という学校は、今でこそ超難関の進学校ですが、昔は公立校の滑り止めの私立に過ぎなかったそうです。その普通の私立校を超名門進学校にしたといわれる伝説の先生がいました。それが橋本武先生。今年99歳。この橋本武先生が行われた授業は、突拍子も無い空前絶後のものだったそうです。中学3年間の授業を通じて、文庫本の「銀の匙」を一冊だけを読んでいく授業だったのです。それ以外には何も無い。ゆっくりゆっくり丁寧に丁寧に少しずつ先生が生徒に読んで聞かせます。そして生徒はその場面を各自自由に空想し、自分であればどういう印象を持つのだろうか?そしてそれは何故だろうか?生徒は各自その場面を体で感じます。

この「銀の匙」に登場する中勘助という少年は、虚弱体質でいつも叔母におぶられていました。叔母におぶられながら、叔母の目線で世の中を見てきたのです。灘校の生徒たちは、その中勘助少年の季節感を丁寧に丁寧に追体験していくという授業だったのです。その授業を進める中で、クラスの生徒の興味を一つ一つ掘り下げてゆきます。さらに、その生徒の個性の探求を徹底して行われたそうです。

以下のようなエピソードがあります。・・・・・
「教師は、文庫本の一節を朗読すると、柔らかな笑顔を浮かべ紙袋を取り出した。生徒たちは、今日は何が出てくるのか、と目を輝かせる。出てきたのは赤や青、色とりどりの駄菓子だった。教師は、配り終わると教室を制するようにいった。

「もういっぺんこの部分を読みます。食べながらでいいので聞いてください」読み上げたのは主人公が駄菓子屋で飴を食べる場面。

「青や赤の縞になったのをこっきり噛み折って吸ってみると・・・」生徒の一人はこう呟く。
「普通なら飴を噛み折る音って『ぽきん』『ぱきん』だけど、確かに『こっきり』のほうが優しくて甘い味の感じがでているぁ……」

ある日、その授業のあまりのスローさに級長が質問しました。
「先生、このペースだと200ページ、おわらないんじゃないですか」級長は言い終えた後も、机の脇に佇んでいた。プリントを配りかけていた橋本武先生は、その手を止め、級長の顔を見つめた。

・・・・・「スピードが大事なんじゃない。」いつものような、教室の隅々にまでよく通る声でなく、抑えた低い声は、しかし、凛とした響きがあった。橋本武先生は続けた。

「たとえば、急いで読み進めていったとして、君たちに何か残ると思いますか? なんにも残らない。私の授業は速さを競っているわけではありません。すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなります。そういうことを私は教えようと思っていません。なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げてほしい。私の授業では、君たちがそのヒントを見つけてくれればいい・・・・・・。」

思春期の子供たちの旺盛な好奇心に火をつけ、教科書なき道を切り拓いてきました。徹底して一つのことを追求する中で、自分自身の持つ大いなる個性を発見し、前に進む好奇心となりました。灘校は中高の6年間を一人の担任が受け持ちます。橋本武学級は、昭和43年の銀の匙の子供たちの三巡目の大学受験で遂に東大合格者132名で日比谷高校を抜き日本一となりました。彼らは猛勉強をした訳でもなく、ただ全方位に興味の枝を広げ、多くの個性的な学び方を学んだ結果でした。恩師と呼べる教師との出会いは、その後の人生を大きく変えることがあります。彼ら、銀の匙の子らは社会にでても、銀の匙で学んだ姿勢を崩さず、大活躍されているのは言うまでもありません。

武の心と心のふるさと

私が中学2年生の頃、兵庫県の山の中にある小さな町に住んでいました。自宅から中学校までは歩いて約30分ありました。その頃は、兄も妹も非常に勉強ができて超進学校に通っていましたが、勉強嫌いの私は地元の公立中学校に通っていました。いつもいじめの対象になっていた私は、一人で行動することが多かったと思います。そんなある日一人で下校していると、見慣れたある家に大きな看板が掛かっていることに気付きました。

「あれ?こんなところに看板なんてあったかなぁ」見てみると漢字ばかりです。
「金剛禅総本山少林寺有段者会」と書いてあります。
「お寺なんだ。」そのまま帰宅しました。

土曜日は、毎週放映される「吉本新喜劇」を観るのが一番の楽しみでした。おそらく関西の人は、特別な用事が無い限り、ほとんどの人が吉本新喜劇を観ているのではないでしょうか?吉本新喜劇が終わってチャンネルを変えると、何かのドキュメンタリー番組を放送していました。NHKの「明日は君たちのもの」という番組です。

全国の中学生を取材する番組で、時々見ていました。すると、画面いっぱいに朱色の大きな門が映り、白い服を着た沢山の人たちが走っている場面が映りました。そしてその朱色の門に大きな看板が掛けてあり「金剛禅総本山少林寺」と書いてあります。

「待てよ。この看板・・・どこかで見たことがあるな。」ついさっき、下校途中で見つけた看板にとても似ていました。その番組を見てそれが何か判りました。香川県多度津町にある少林寺拳法の本部でした。空手のような蹴ったり投げたりする武術です。そこに登場した少年が、この本部道場に通う中学二年生で、自分と同じ年です。自分と同じ中学生が、こんな格好いい武道をやっている。自分も喧嘩に強くなりたい。黒帯になりたい。急に習いたくなりました。

早速翌日下校途中に見つけた家を訪ね、弟子にしてもらえるよう頼みに行きました。しかし残念ながら、まだ教える資格が無く道場を紹介するのでそちらに行ってくれということでした。こんな不思議な出会いから少林寺拳法を始めることになり、以後44年も続いています。こんなに長く続いたのには、相性が良かったということもありますが、出会った先生方がやはりとても素晴らしく、様々な人生の気付きを与えてもらったからかも知れません。

特に影響を受けたのが、創始者でした。少林寺拳法というと中国武術のように思われますが、戦後日本で編み出された全く新しい武術です。戦後、アメリカ軍に怪しまれないように宗教法人化し、仏教の修行であるとカムフラージュしたことからこの様な形態になりました。創始者は宋道臣師といいます。日本軍の特務機関員として中国大陸に渡り、スパイ活動などする中で、地下に潜る数多くの中国武術師範にめぐり合い、一手一手手ほどきを受けました。当時、中国では義和団事件以降、反政府勢力として、武術家が弾圧され弟子も取れず衰退の一途をたどっていました。

そんな時に、若い日本人がやってきて熱心に教えを請う。その姿勢が認められ北少林義和拳継承者の免許を与えられます。その時に訪れた、中国河南省嵩山少林寺にある一枚の絵が目に留まります。白衣殿というところにあった壁画です。仏教を伝えに来たインド人僧が、中国の僧に手取り足取り武術の技を教えている様でした。皆、二人一組になって厳しくも楽しそうに技をかけあっている様子が目に焼きついたそうです。

これまで柔道や剣術や槍術などを修行してきた創始者宋道臣師は、修行の時「親の仇だと思ってかかってこい!」そういわれて育てられました。また段位の下のものが高段位の者に勝ったりすると「どんなもんじゃい。」と態度が一変してふんぞり返る。そんな修行の方法に疑問を感じていたからです。この壁画には全く違う様子が描かれていました。終戦後日本の国内の混乱期には、それが顕著に現れ、喧嘩の強いものが支配し、道徳も思いやりも何も無い。無法地区に成り下がっていました。そんな時、この白衣殿の壁画のような修行を通じて、若い日本人を育てたいという想いから始まったのが少林寺拳法でした。中国で教わった技を基本にして日本人に合った技に改良し、新しく編み出して作られたのです。私は、喧嘩に強くなりたいという気持ちだけで入門したのですが、入ってみると全然違う。もちろん厳しい技の修行ですが、それだけではなかったのです。座禅を組み、道徳を学び、技を掛け合って、お互いの長所を見出すという繰返しでした。すべては、加算法の発想でした。何もしなければ0点。そこに1点1点積み上げてゆく。お互いにそれを教え合いながら高めていくというものでした。

印象深かったのは、「武道」についての授業でした。「武という文字は「矛」を「止」という文字の合成である。つまり、その攻撃を止めさえできれば、その役割は果たしている。大切なのはその事ではなく、それを運用する自分の心の有り様である。」と教わりました。当時、中学生で全く意味は解りませんでしたが、二人一組で技を掛け合うことが楽しくて楽しくてのめりこんでいったことを覚えています。創始者宋道臣師はすでに亡くなって30年ほど経ちますが、人の出会いとは本当に大切だということを感じます。また最近はその出会いも何か不思議な因果で繋がっているのかも知れないと思います。

あの時、中学校の下校の途中で看板を見つけなかったら、あのNHKの番組を見ていなかったら、また別の人生の展開があったかもしれません。人生に、「もしも」という言葉は必要ないのかもしれませんが、ほんの小さなきっかけや出会いがその後を左右することだけは確かなようです。私にとっては、この出会いが「心のふるさと」となりました。