新・内海新聞 36号

急激な円高が日本を襲い、輸出型産業は大打撃を受けています。モノ作りの国ニッポンの危機です。何も資源を持たない国家が生きてゆくには、新しい付加価値を創造するしかありません。原料を輸入し、加工して新しい付加価値をつけて輸出する・・・という意味では世界産業の心臓を担っているといえますが、今はピンチです。この機会に新国家の道筋を構築するのも悪くないです。

「モノ作り国家からコト作り国家へ」です。「コト作り国家」とは、いろいろあるでしょうが、最初から最後まで人の手が介在し、そのベースにはモノづくりのしっかりした基盤がある産業です。それは、「教育」「環境」「医療」の3つも該当するのではないでしょうか?コト作りで世界に貢献できる国家ニッポンというのがあっても良いのかも知れません。

二階に上がって、あのぼた餅を食ってやろう・・・

結構、社会に出てから時間が経過しましたが、その節目節目でさまざまな方々との重要な出会いがありました。一番衝撃的な出会いのお一人が株式会社パソナの創業者の南部靖之さんです。人が人に出会うときほど、常識では考えられない偶然というものがあるものです。昭和58年10月、私は兵庫県宝塚市にある中華料理店でコックとして働いていました。「将来は優秀な外科医となって世界で活躍するのだ!」なんて考えて医学部進学を目指していましたが、何の因果かコックの道に進むことになります。昭和51年のことです。

それから7年が経過し、お店も順調に推移するようになっていたある日、お店を閉めて帰り支度をしていました。調理台の上に小さなステンレスのボールに入れた塩や砂糖や醤油や老酒といった調味料が置いてあります。それらにホコリがかからないように新聞紙を被せて帰ります。その為に食器棚の上に古新聞の束を積んでいました。背伸びしてそれを取ろうとした拍子に手を滑らせて、新聞紙の束が床に落ちてしまったのです。二つ折りにしていたところがパンッと開いて、何故かある記事が目に飛び込んで来ました。「素人のあなたを社長にします!」なんだろう?・・・私はその新聞を手にとって読み始めました。もしも、あの時、新聞紙の束を落とさなかったら、また違った人生を歩いていたかも知れません。私は、その記事をヘンケルの料理バサミで切り取り、食器棚にテープで貼り付けて帰りました。翌朝、その記事が再び目に留まりました。そこには、自分のアイデアを企画書にして提案すれば審査の結果では事業家の道が開ける・・・と書いてありました。

さっそく私は、その新聞記事に書かれてあった電話番号に電話してみました。柏森さんという女性の方が出られて、誰でも応募は可能ですが、締め切りは明日の消印まで!ということでした。さぁ、大変。企画書などというものを書いたこともない。しかも時間がない。不思議ですが、私はもうその時応募しようと思っていたのだと思います。その後、いろいろあって、パソナに入社して一緒に事業をやらないか?とお誘いを受け、昭和60年9月1日月曜日から大阪中ノ島の本社に勤めることとなります。恥ずかしい話ですが、パソナに入社するまで、その会社が一体何をしている会社なのかは全く知りませんでした。何か面白いことをさせてもらえる会社という、いい加減な印象しかありませんでした。当然、パソナの創業者である南部靖之さんのことも存じ上げませんでした。配属は営業です。今まで、飲食店のコックでしたので、営業というものをしたことがありません。お客様は黙っていてもやって来るもの・・・と思っていましたので、こちらからセールスに行くということは想像もできませんでした。しかも、パソナの営業はすべて飛び込み営業。見ず知らずの会社にいきなり訪問して売り込んでくる。毎日疲弊しましたが、初めての体験でもあり勉強の連続でした。

当時全社員150名で年間売上150億円の絶好調の時代でした。世の中、人材派遣という言葉も一般的ではなく、まだ労働者派遣法という法律もない時代でした。違法なのか合法なのかと揺れ動くなかで、自分の限られた時間だけ働いて、自分の能力を活かしたいという方々も存在することを実感する毎日でした。そんな中で南部靖之さんとお話ができる機会もできてきました。私にとっては、南部靖之さんのお話をうかがうたびにカルチャーショックの連続でした。今でも耳に残っている口癖が「こだわらない、とらわれない、惑わされない」の創業三原則です。何かをしようとする時の弊害は、すべて自分の中にある・・・ということです。

人の目を気にしていては前に進めない。常識の反対は非常識ではなく、超常識だと、一度決めたことは必ず実行されました。だから部下たちも、絶対に途中で止めることはないという安心感から、全力で突破していく姿勢が生まれました。二人で時々、一緒に朝食をとる機会を頂き、直接お話も伺えました。「いいか、何を目指すのか、なぜ目指すのか?という大義名分が必要なんだぞ。その大義名分を失ったら、事業をする意味がなくなる。そして、その大義名分があるから突破する力やアイデアが生まれるものなんだ。二階に上って、あのぼた餅を食ってやろう!!という強い気持ちが梯子(はしご)というアイデアを生み出すんだ。もしも、二階に上がる目的も何もなかったら、人はきっと途中であきらめてしまうだろう。だから、何かを始めるときは必ず大義名分を見つけるんだ。そしてそこから、絶対に目をそらせてはいけない。」・・・今でもはっきり耳に残っています。

無印良品の週刊誌4コマノート

遂に見つけました。無印良品の「週刊誌4コマノート」実は広告代理店にいた友人に紹介されました。ノートを開くと縦に4コマのマスの枠が書いてあります。1ページ8コマで見開き16コマです。一体何の目的でこのノートが作られたかは不明ですが、いろいろインターネットで調べてみるとマンガを描くのに使っている方が多いようです。しかし、私はマンガを描くために使っているのではありません。一人ブレーンストーミング用に利用しています。要領は以下の通りです。まず、見開きのページの左上○印の部分にタイトルを書き込みます。そして、中心部真ん中の4コマ(太線①~④)がメインになります。

タイトルの要素を4つピックアップして、この4マスの1マスずつ書き込みます。4つなければ、無理やり4つにしてひとつずつ書き込みます。そしてそのひとつの要素からイメージされるアイデアや、懸念事項や解法などを直感的に書き込んでいきます。この内容はどんどん変更しても可です。この16マスのマスが全部埋まるまでは思考を止めません。しかし、どうしても繋がらないマスや、埋まらないマスは出てきます。実はそこが今の自分自身の思考の考えの足りない部分です。この16マスが一杯になったら、この16マスの中でどれかひとつ気になるマスの語彙を見つけ出し、次のページに、再び4マスに要素を分解し、また16マス一杯になるまで埋めていきます。これによって、すべてのことがビジュアルで思考できるようになり、関連性を持って思考を続けていく癖作りができます。

また、このノートを、後で見直すことによってイメージで記憶に残っている内容がさらに鮮明に洗練され、新しいアイデアを生み出す源泉になります。16マスを埋めている中で、今まで十分理解していると思っていた内容が、うまくまとめられなかったり、関連性を説明できなかったりという、「思い込み記憶」を発見することができます。私は、時間があればこのノートをパラパラとめくり、記憶と思考の反芻をしています。ちなみにこの無印良品の週刊誌4コマノートは1冊95円(税込み)です。

褒められること

この月刊「新内海新聞」は、前バージョンの「内海新聞」から数えて10年も経過しました。記念すべきに第一号は2000年4月に発行されています。最初は、30部くらいを作って、社内のスタッフの皆さんに社内報として発行していました。営業の方々が客先にも持っていくようになり、お客様から毎月欲しいという声が出始めて、社外に向けての広報新聞になっていきました。最初は、毎月郵送していました。その数は毎月約3000部に達していました。この内海新聞を通じてさまざまな出会いもありました。たとえばサンマーク出版との出会いです。この内海新聞が編集者の方の目に留まり、単行本を出してみないかということになり、2002年に「出会う人みな仕事の先生」を出版しました。現在では既に絶版なのに、いまだに定価以上のプレミアムが付いているのには驚きの気持ちで一杯です。お客様からも、「毎月楽しみにしています。」とか「コピーして社内で回覧しています。」とかいうお声を頂くたびに感謝とともに責任を感じます。

内容も歴史的な話以外は、必ず自分の体験したことを中心に書くようにしています。そもそも、この内海新聞を発行するようになった原因というのは、自分自身が文字を書くことが好きだったということかもしれません。その好きになった理由というのは、ある出来事がきっかけなのです。私が高校1年生の時、母が突然「台湾に中華料理の勉強に行ってくる。何年後に帰国できるか判らない。」といって一週間後に出て行ってしまいました。残された父と兄妹三人は困りましたが、なんとか協力して生活しました。そして毎月一回、台湾の母の元に手紙を送ろうということになり、兄妹三人は別々に便箋に何枚かの手紙を書きました。その手紙は、必ず父の検閲が入ります。自分の悪口でも書いていると思っているのでしょうか?私は毎月自分の身の回りに起こった事件を描写して書いていました。特に休みになると友人たちとヒッチハイクで無銭旅行をしていて、ある時、琵琶湖半周ヒッチハイクレースに出場して優勝したことがありました。それが嬉しくて、千里が丘のMBS毎日放送前からスタートして、大津の終点までの半周する中で起こった出来事をこと細かく書きました。原稿用紙20枚以上にもなりました。それを読んだ父が、私を呼んでこう言いました。

「お前は将来、物書きになったらよい。文章はでたらめだけれど、表現に華がある。」

生まれて初めて父に褒められました。物書きになろうと思ったことはありませんでしたが、それからは文章を書くことが苦にならなくなりました。さまざまな作文のコンテストにも入賞したり、交通安全の標語の懸賞応募で賞金をもらったりと、思い返せば結構文章で賞金稼ぎをしていたな・・・と思います。いまだに誤字脱字のでたらめな文章ですが、読んだ方がそのシーンを頭の中に思い浮かぶような書き方をしたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。