新・内海新聞 34号

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ第三幕の長崎に入りました。長崎といえば、私は何度も足を運びました。何か不思議と縁を感じる地でもあります。友人がオランダ坂を登った活水女子大学の横に事務所を開いていて遊びに行きます。長崎に行って思うことは、歴史的な街であるのに歴史的な場所が消えてしまっていることです。

なぜなのでしょうか?過去を消してしまいたいのでしょうか?出島も埋め立てられて今では跡形もありません。ポルトガル人やオランダ人の居留していた場所も、土の下に埋まっています。かつての長崎の街に復活して欲しいものです。ある方にこんな話を聞きました。第二次世界大戦の時、広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下されました。長崎は広島ほど原子爆弾のことに関して情報がありません。実は、原子爆弾投下後、終戦になったとき、直ちにアメリカ軍は長崎に進駐し、原爆の被災跡を片付けて撤収したそうです。それは、投下したところが大浦天主堂。カトリック教会でした。このことが世界に知れると大変なことになると、跡形もなく片付けたそうです。

西郷隆盛の本当の顔

上野公園にある西郷どんの銅像。この銅像の顔が別人であると以前から言われ続けてきました。もともと暗殺を恐れていた写真嫌いの西郷さんは、生前の写真が残っていないのです。死後、イタリア人画家・キヨソーネが明治16年に隆盛の弟・西郷従道と、隆盛の父方の従弟・大山巌をモンタージュしたもの(写真左)だといわれています。上野公園の銅像公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の薩摩弁を漏らしたといいます。さて、ここに一枚の写真があります。福井藩松平春嶽公のもとにあったと伝えられる写真(右)です。字が間違っていますが裏に「西郷吉之助」とかかれて書かれてあります。右から二人目の人物です。一番右の人物が西郷さんらしき人物の左肩に手を置いています。考えてみれば薩摩軍の最高司令官の肩に手を置くなどという失礼なことはするはずがないと思うのですが、写真嫌いの西郷さんが嫌がるのを無理やり押さえて写真に収めたとも考えられます。

しかし、このずんぐりむっくりとして、たまねぎのような頭では、銅像の西郷さんとは全く違います。史実的に天下の賢侯である春嶽公を訪問したとしてもおかしくはありません。私は、この西郷さんのたまねぎ頭の写真ではなく、一番注目したのはもう一人の人物です。写真の一番左に座っている人物です。古い写真でボケているのですが、履物に注目していただきたい。この人物だけブーツを履いているようにも見えます。この時代にブーツを履いていた変わり者といえば、ただ一人しかいません。坂本龍馬!春嶽公と坂本龍馬はかねてから親交がありましたし、その坂本龍馬が西郷さんを春嶽公に引き合わせたという可能性もあります。しかし、こんな証拠もありませんし、政治的に敵対していた幕府と薩摩が慶応年間に密会していたというのは怪しい話ですが、そんなことを考えながら眺めていると空想が広がります。写真では伝えられる顔と少し違うような気もしますが・・・・。

以前、出張で鹿児島県に何度か行ったことがあります。また旅行でも数回訪れています。西郷さんが西南戦争で最後に立てこもったという城山にある洞穴も見てきました。街のあちこちに西郷さんの逸話や、絵がありました。本当に今でも鹿児島の方々に愛されているのだというのが良くわかります。以前、鹿児島出身のタレントのはしのえみさんがラジオで話していましたが、10代20代の女性に、将来結婚したい相手は、ベッカムか西郷さんかどっち?というアンケートで堂々西郷さんが勝ったそうです。これはすごいことです。鹿児島出張の時、地元の方々が歓迎の宴を開いてくださいました。黒豚やきびなごや焼酎など美味しいものがずらりと出て大変盛り上がりました。

その時私は「九州に来るのは本当に久しぶりなんです。」と言った時、急に周囲の空気が止まりました。
「かごんまは九州じゃなか!(鹿児島は九州とはちがうぞ!)」と叱られたのです。
日本を作ったのは俺たちだ、という自負があるのでしょう。
「今の東京はどうだ?なにかニュースはないか?」と東京の情報を聞きたがることにも大変驚きました。

鹿児島に行って少し気になることがひとつあります。それは鹿児島が生んだもう一人の幕末の英雄「大久保利通」の銅像がないことです。どこにいってもありません。銅像どころか、大久保利通いわれの場所の案内も何もありません。街の人に聞いても何も知りません。あとで、解ったことですが鹿児島では大久保利通は西郷隆盛を追い込んだ裏切り者として見られていたようです。しかし、大久保利通がいたからこそ近代日本が動き出したことも事実です。赤坂見附にあるホテルニューオータニの前には大久保利通候遭難の場所として暗殺現場に大きな大きな慰霊碑が建っています。世間では評価されているのに、そのご当地ではあまり評価されていないといえば、先ほど登場した坂本龍馬もそのようです。観光資源としては坂本龍馬は大切ですが、地元の人はそんなに思い入れがないようです。土佐出身の友人の話によると、高知県というのは南は太平洋北も東西も山々。完全に閉鎖された地域です。その閉鎖された地域の中で頑張って成功した人物が評価されるということです。一度土佐を出た者は二度と戻ってこないと言われているそうです。
「坂本龍馬は土佐を捨てて出て行った人物、それほどの思い入れもありません。」とは友人の弁。
「それは君の個人的な感想ですか?」と聞くと「いや、ほとんどの高知の人間はそう思ってると思うよ。」とは驚きです。

坂本龍馬が歩いた距離

自称龍馬おたくの私の自慢の宝物が、龍馬愛用の銃です。何丁ももっていたようですが、このスミス&ウエッソン2型32口径は、長州藩の高杉晋作から拝領したものと伝えられています。昔、高知にある坂本龍馬記念館に展示してあるその銃を見てからどうしても欲しくなり、レプリカではありますが、数年前に同タイプのものを入手しました。

高杉晋作は上海でこの銃を購入。その後、信頼の証として龍馬に手渡しています。しかし、実際のこの銃は、京都寺田屋事件の時に紛失しています。その後、スミス&ウエッソン1型22口径を持ち歩き、京都近江屋での遭難事件で、この銃を取り出すまもなく暗殺されています。妻の話によると、薩摩に手の傷の湯治に訪れた際、お龍とともに山に上がってこの銃で鳥を撃ったり、魚を撃ったりして遊んだそうです。

そんな活動的な坂本龍馬が5年間に歩いた距離を聞いて驚きました。4万1千キロ!地球一周に相当するそうです。どうしたらそんなに歩けるのでしょう?

いま、アースマラソンで頑張っている吉本新喜劇の間寛平さんが2008年12月17日に大阪を出発してすでに1年あまり。2ヶ月間のがん治療はあったものの、ものすごいスピードで走っています。途中ヨットによる太平洋大西洋横断を含んで、現在カザフスタン共和国。この調子だと来年の夏ごろには日本に戻って来れそうです。これを考えても坂本龍馬の走破の速さはすごいです。ただ走っているのではなく、さまざまな場所で商談交渉をしたり海戦に参加したり、移動していないときも相当あったはずなのに想像を絶するスピードです。

ただ、単純に4万1千キロを5年で割ってみると1年間に8200キロ。1日に22キロを歩き続けたことになります。休みなく毎日22キロ歩き続けるのは尋常ではない。また、別の計算だと東京-大阪間を34往復した計算になります。驚き以外にありません。余談ですが当時の飛脚はもっと早く走ったようです。当時の郵便は、仕立てというものがあって、江戸・大坂間を三日半で運んだようです。もちろん全工程一人ではないと思いますが。その費用もべらぼうに高い。当時のお金で7両2分。現代だと50万円以上ということになります。今では考えられません。しかし、坂本龍馬は全国から土佐の姉の乙女や京のおりょうに130通以上もの手紙を送っていますが、その費用はどういう風にして工面したのでしょうか?また、全国を移動した時の費用などは一体どのようにして工面したのでしょうか?

わが夫坂本龍馬

以前、少しだけご紹介しましたが、「わが夫坂本龍馬」という本があります。朝日新書から出されています。明治32年頃の西村ツル(おりょう)からの聞き書きです。その頃おりょうは60歳。おりょうへの取材回想録「反魂香」という文庫に掲載されました。当時は思いつくままの話で、時系列でもなく勘違いもありで、難解な文章だったということです。これが、昨年口語体で再編集され、出版されたのがこの本です。記録したのは元海援隊士安岡金馬の三男・安岡秀峰です。海援隊士の菅野覚兵衞(千屋寅乃助)の妻はおりょうの妹の君枝でその関係で安岡が取材できたのだと思います。安岡は当時郵便局員でおりょうの家に訪問し記録したようです。

その中の一文に「龍馬はそれはそれは妙な男でして、まるで他人さんとは一風違っていたのです。少しでも間違った事はどこまでももとを糺さねば承知せず、明白に謝りさえすればただちにゆるしてくれまして、『この後はかくかくせねばならぬぞ』と、丁寧に教えてくれました。」

外面と考えていることが違っている人物だったようです。また気になる文章もあります。
「龍馬が死ぬると間もなく、陸奥宗光が京都の芸者をおおぜい連れて来て、中の島へ船を浮べ、菊の御紋の付いた縮緬の幕を張りめぐらし、呑めや唄えの大騒ぎ、その中には新撰組のやつもいたそうです。これを聞いた寺田屋のお登勢は、足ずりして口惜しがり、「龍馬さんが生きていたら頭も上らない陸奥さんも、目の上の瘤が取れてみると勝手な真似をしやぁがる。龍馬さんや中岡さんを殺したやつらに陸奥さんは、かかりやってはいないかしら」と言ったそうです。

・・・このあたり、歴史には出てこない部分でよく解りません。また、寺田屋事件後、薩摩屋敷に出向く用事の時、男装した話があります。「この伏見屋敷で一月一杯おりましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎えに寄越してくれましたから、ちょうど晦日に伏見を立って、京都の薩摩屋敷へ入りました。この時、龍馬は創(きず)を負っておるからと駕籠に乗り、私は男装して兵隊の中に雑って行きました。」まだまだ、おりょう目線での坂本龍馬像が登場します。当時としてはそうとう高齢ですし、記憶も定かでないぶぶんもありすべてが事実とはいえませんが、ちょうど第三幕からの龍馬伝に登場する場面が中心に書かれていますのでお奨めです。