新・内海新聞 29号

早いものでもう3月。近所の幕山公園では梅も満開。タクシーの運転手さんに聞くと、「この幕山公園の梅の宴で一年を生活しているようなもの。これがなかったら大変なことになる・・・。」というくらい大勢の観光客が押し寄せます。

確かに梅の花は比較的長い間咲いています。桜のようにぱっと咲いてぱっと散るようなこともない。1ヶ月くらい楽しめるというところがいいです。4000本の白や桃や赤の梅の花が咲き乱れると、その規模に圧倒されます。幕山公園は、3月上旬まで梅が咲いています。詳しくは、右のQRコードを携帯カメラのバーコードリーダーで写してご覧下さい。

ひとつの事件とめぐる運命

いつになっても政治とお金の問題は尽きない。記憶に残る大疑獄事件というと1976年のロッキード事件があります。全日空の新ワイドボディ旅客機導入選定にかかわる受託収賄事件です。この事件が日本で大騒動になる少し前、地球の裏側で 因縁めいた大事故が発生していたのはあまり知られていません。「トルコ航空DC-10パリ墜落事故」です。

1974年3月3日、パリ郊外でトルコ航空のDC-10が墜落し、多くの方々が亡くなったのです。以下、その詳細を当時の記録から抜粋すると・・・事故機は離陸10分後(パリから北へ15km離れたサン=パトゥス村上空)、高度3500メートルまで上昇したときに、不完全にロックされていた左側後部貨物室ドアが客室の与圧により吹き飛ばされて急減圧が起こり、客室の床が破壊され、それに伴い床下を通るコントロールラインが切断されて、方向舵、昇降舵、尾部エンジンの制御が不可能になり、パイロットの操縦も虚しく操縦不能のままドアの脱落から1分17秒後に時速約800kmの速さで墜落に至った。事故の直接の原因はDC-10の貨物ドアを最後まで締め切れなかった空港従業員のミス(彼は英語を読解することができなかった)である。当日はイギリスの航空会社のストライキがあり、数少ない運航便は混雑していた。そのためトルコ航空981便は、ほぼ満席の乗客が搭乗していた。

トルコ・イスタンブールを出発し、パリを経由して最終目的地であるイギリス・ロンドンに向かうためオルリー空港を離陸した。異常事態の発生は離陸から10分後、高度3600mに達した時だった。突然貨物室ドアが吹き飛び、乗客6人が座席ごと吸い出された。また、減圧で客室床が陥没し、床下を通っていた操縦系統が破損したため、981便は完全に操縦不能に陥った。同時に吹き飛んだドアが水平尾翼に接触、機首が下がってエンジン推力も低下し、左に大きく傾きながら急降下し始めた。

一方、出発地のオルリー国際空港のレーダーでは981便の機影が分裂した。一つはその場にとどまった後消滅し、もう一つは右方向へ旋回し始めた。管制官は981便に呼びかけたが、981便からの交信は混乱したトルコ語の会話および、速度逸脱警報音と航路逸脱警報音が聞こえるだけであった。そして異常発生から約1分後の午後12時40分、778km/hの高速で、パリの北東約37kmのオワーズ県・サンリス近郊のエルムノンヴィルの森に墜落し、100m×700mに渡って木々をなぎ倒した。機体は一部の破片を除いて微塵に砕け散った。この事故で乗員12名、乗客334名の合わせて346名全員が犠牲になった。

また犠牲者のなかには48名の日本人が含まれており、その多くがこの春から大手都市銀行へ就職する内定者であり、欧州への研修旅行の途中で悲劇に見舞われたものであった。東京オリンピックの400メートルハードル及び400メートルリレーで銀メダルを取ったイギリスの陸上選手ジョン・クーパーも犠牲となった。この事故は、300人以上が搭乗した大型旅客機としては初の大事故となった。これらの犠牲者の遺体は、高速で森に激突したために損傷がひどく、遺族には遺品のみが手渡され、遺体を集めて荼毘(だび)に付した後に遺骨および消毒した現場の土を各遺族へ分けるという方法が採用された。

1977年3月27日にテネリフェ空港ジャンボ機衝突事故が起こるまでは世界最大の航空事故であり、また1985年8月12日に日航ジャンボ機墜落事故が発生するまで、単独機航空事故として、世界最悪の死亡事故だった。当時のトルコ航空は本来DC-10のような大型機を必要とするほどの需要がなかったにもかかわらず、ダグラス社から破格の条件で購入を持ちかけられ3機を就航させていたという。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

なぜ、トルコ航空は必要もない大型航空機を購入することになったのか?これは、ダグラス社が日本の全日空向けに製造したものの、政治工作によりキャンセルされた機体であり、在庫となった機体の処置に困ったダグラス社がトルコ航空に破格の条件で強引に販売したものでした。この政治工作というのが、ロッキード事件であり、DC-10のかわりに全日空が購入したのがロッキード社のトライスターでした。

魚屋と八百屋

私が20歳代の約10年間は、西宮地方卸売市場というところでアルバイトをしていました。勤めていたのは「山田青果」という八百屋の卸問屋です。当時は、朝から夜までは自分の中華料理店をしていたので、その営業前の早朝4時から9時までの5時間働いていました。地元の小売の八百屋さんが仕入れに来たら、その買い物の野菜を乗ってきたトラックに積んであげる肉体労働です。一回に運ぶ重量は大体200Kg以上あります。大きな木の台車に積んで、ガラガラと引っ張っていき、トラックの荷台に積み上げます。これの繰り返しです。

当初は、自分の中華料理の材料を仕入れに行っていたのですが、その仕事が性に合ったのでしょうか、ズルズルと長期間働き続けることになります。その山田青果の社長の山田さんが、入店した初日に私に言った言葉が忘れられません。

「まぁ、目標は一週間勤めてみろ。まず続かないな。」

非常に過酷で、しかも野ざらしですので、雨や雪の日などとても寒くて立っていられない。目の前に置いてある大根がどんどん凍っていくのが目で見えます。なにしろ冷蔵庫の中の方が暖かく感じる程です。勤めて一年経ったころ、「3年勤めたら店を持たしたる!。それまで頑張れるか?」そう声をかけてくれるようになりました。結局、10年近く勤めることになるのですが、その時山田社長は、気になることをよく話してくれました。

「あんたな、配達に行くことがあったら、必ず流行っている魚屋を探しなさい。超流行っている魚屋を見つけたら、ちゃんと手帳に書いておきなさい。」というのです。

自分の仕事は八百屋の配達だし、魚屋は全く関係がありません。なぜ、魚屋をチェックするのか?不思議でした。そして毎日毎日単調な生活が続きました。ある日もいつものように野菜を得意先の八百屋のお店まで配達に行きました。その八百屋は、とても流行っていて仕入れの量も多く、乗ってきた八百屋のトラックに積みきれません。だから配達に行かなければならないのです。そして、そのときに気づいたのです。その八百屋の隣は、大きな魚屋があって、ごった返すほど流行っていました。考えてみれば、他の流行っている八百屋の近所にはだいたい魚屋がありました。いや、逆かもしれません。流行っている大きな魚屋の周りには何軒か八百屋があって、どこも流行っているのです。

山田社長はこのことを言っていたのだ・・・・。流行っている魚屋に引っ張られて、周囲の八百屋が流行りだすという相乗効果があるのかもしれません。肉屋ではだめなのです。「もしも、流行っている魚屋の隣の店が空いていたら、すぐに借りなさい。」お世話になって卸問屋の山田社長の口癖でした。

ティルト(傾ける)という手法

大体性格が天邪鬼なもので、まっすぐに物事が見られない。ということで、この「ティルト」という手法にとても惹かれます。

いえいえ、これは写真撮影の方法です。「あおり」ともいいます。わざとピントをはずして写す手法です。これには、専用のレンズが必要です。高いものでは数十万円もしますが、レンズベビーという中古で数千円のおもちゃのようなものがあって、これで十分です。(写真右上)右の写真を見ていただきたい。左や右下の写真は、まるでジオラマというか箱庭写真というのか、おもちゃの写真のように写ってします。

右上のマウントを一眼レフのレンズに取り付けるだけです。私は、NikonのD90にレンズベビーを装着しています。レンズベビーは真ん中がジャバラになっていてココをいろいろ傾きを付けて焦点をずらすことができます。私は,初心者なのでf4.0で練習中です。

コツは、①斜め上から写すこと②近くのものを写すこと③動きのある物体を写すこと・・でリアルにジオラマのように写すことができます。カメラというのは、実物を忠実に写すことが大切と考えていましたが、わざとピントをずらせて、偽物のように写すことがこんなに写真の世界を楽しくさせるのかと驚きです。

しかし、ジオラマは実物になるべく似せて模型を作っているのであって、一方、ティルトは、本物をなるべく偽物に近づけて写す手法であって、偽物なのに本物みたい・・・と驚き、本物なのに偽物みたい・・・と驚く。この偽物と本物の境目に人間が興味を抱く微妙なゾーンがあるのかもしれないません。この境目にあるものが「技術」であったり「伝統」であったりするのですね。