新・内海新聞 38号

先日、タレントのタモリさんのカレーを自宅で作ってみました。バカにするなかれです。激旨でした。鶏モモ肉にターメリックとクミンを揉み込み、フライパンで両面軽く焼く。大鍋に水1リットルを入れ、さっきの鶏肉、マンゴチャツネ、赤ワイン、ミキサーしたホールトマトを入れ中火で煮込む。その間に、玉ねぎみじん切りに、おろしニンニク、生姜を入れて炒め、カレー粉、ターメリック、クミン、牛乳、ヨーグルトを混ぜる。これを先程の鍋に入れ、醤油、砂糖、塩、とろけるチーズを入れて2時間弱火で煮込む。最後に塩で味を調整し、15分強火で煮込んで完成!私は、これに焼肉のタレ大さじ1杯と豆板醤小さじ2杯を加えました。インターネットでも「プレーンタモリ」で紹介されていますので、興味のある方は是非お奨めです。料理長

立命の書「陰隲録」を読む (致知選書)

「陰隲録」(いんしつろく)という本があります。久しぶりに良い本に出会えたといえます。到知出版から出されています。「陰隲録」自身の著者は、「袁了凡(えんりょうぼん)」という人ですが、この日本語版は陽明学者の安岡正篤さんが書かれました。運命とは一体何なのだろうか?運命は既に決まっているものなのだろうか?その問いに答える本ともいえます。私の母は83歳ですが、四柱推命の鑑定士で人の運命論に関して私とよく激論を交わします。命式という(運命のスケジュール表のようなもの)4本の生年月日(生まれ年、生まれ月、生まれ日、生まれ時刻)によって、自分の人生は決まっていて、その大きな大河の中で生きてゆく。あなたは来年は年回りが悪いので、新しいことはしない方が良い。この人との相性は良くない・・・などなどいろいろと指示が飛んでくる。

そんな時、いつも疑問に思うのです。自分の人生は一体誰が決めるのか?どの道に進んでも自分は自分。すでに決められたスケジュール通りに生きてゆくことが正しいのか?

「そんなこと言うたって、こうなってんねんから、仕方ないのや。」と言われてしまいます。

そんな時、この「陰隲録」(いんしつろく)という本と出合いました。今から400年ほど昔の中国。当時は明という国でした。日本では豊臣秀吉や徳川家康が活躍した時代です。それはこの様なお話です。袁了凡がまだ袁学海と名乗っていた子供の頃、ある白髪の老人が尋ねてきます。

「私は南の国で、易の修行を積んだ孔というものだ。北の国に住む袁了凡という少年にその奥義を伝えよという天からのお告げでわざわざやって来た。」と言います。

驚いた袁学海少年は自宅に連れて行き母親に会わせます。白髪の老人はその晩、学海少年の家に泊めてもらうことになります。夕食後、その老人は学海少年の未来を話し始めます。

「お母さんは、この少年を医者にしようと思っていますね?」
「はい、この子の祖父も医者でした。早く亡くなった父親も医者でした。ですから、この子にも医者を継がせようと思っています。」
「そうですか・・・。しかしお母さん。この子は医者にはなりませんよ。科挙の試験を受けて高級官僚になります。」

そういうと白髪の老人は、学海少年の未来を予言し始めました。
「この子は数年後、郡の科挙の試験を受けて、何人中何番の何点で合格するでしょう。そしてその数年後、県の科挙の試験を受けて何人中何番の何点で合格するでしょう。そしてその数年後、さらにその上の試験を受けますが、残念ながらこの試験には落第するでしょう。しかし、その翌年再び試験を受けて何人中何番の何点で合格します。そして、北京で行われる中央の試験に何人中何番の何点で合格し、見事に若くして長官となられるでしょう。結婚はされますが残念ながら子供には恵まれないでしょう。そして53歳でこの世を去るであろう。」そう予言します。

学海少年は、突拍子もない話に驚きましたが、その後の学海少年の人生は、この白髪の老人が予言したとおりの人生を歩むことになります。老人が予言した歳に科挙の試験を受け、予言どおりの順位と点数で合格します。そして、中央北京の最後の試験も突破し、若くして長官となったのです。その後、四川省のある街の長官として着任します。この街には昔から由緒ある禅寺があり、そこには雲谷禅師という有名な高僧がいると聞いていた学海長官は、その寺を訪ねました。一方、雲谷禅師も、最近若くして有能な長官が赴任したことを聞いていたので、是非お会いしたいと歓迎されます。せっかくなので二人で座禅を組みましょうと向かい合わせではじめたのですが、それが3日3晩続きました。

雲谷禅師は、その学海長官の一切迷いのない座禅にたいそう驚き、
「いったいどこで修行を積まれたのか?どのようにすればそのような迷いのない座禅が組めるのかを教えて欲しい」と言われます。
学海長官は「いえいえ、私は座禅の修行などしたことはありませんが、心当たりがあるとすると、子供の頃、ある白髪の老人が尋ねてきて、私の未来を予言しました。この予言は科挙の試験の合格の点数から順位までピタリと言い当てたのです。結婚をしても子宝には恵まれない、そして53歳のときに寿命が来て亡くなるだろうとも言われました。私の人生は、その白髪の老人の予言通りの人生でした。結婚はしましたが子供はおりません。やがて53歳で亡くなるのでしょう。ですので、何かをしたいとか、あれが欲しいとかの欲は一切ありません。ただ、ひたすら与えられた運命を過ごしてゆくことだけが私の人生だと悟りました。だから禅師が迷いがないように感じられたのでしょう。」

そう学海長官が答えると、今まで穏やかな顔つきで聞いていた雲谷禅師の顔がみるみる険しくなって、「さぞ素晴らしい人物だろうと楽しみにしていたのに、あなたはなんという大馬鹿者なのだ。運命というものは変えられるのです。バカ正直に言われた予言通りの人生を歩む者がどこにおりましょうか?

義理再生の法則 立命の書「陰隲録」を読むの続き

雲谷禅師は、学海長官に話します。
「確かにその孔という白髪の老人の予言は、ことごとく当たったのかもしれない。しかし、そん当たった予言はもうすでに過去のことである。過去のことはいまさらどうすることもできない。だから、あなたは昨日死んだと思いなさい。そして今日から生まれ変わるのです。義理再生の法則というものがあります。義とは実践という意味です。理とは真理という意味です。つまりこれは、長官自身の魂のことなのです。肉体はいつか滅びますが、魂は滅びない。前世から引き継いだ魂を持って現世で生きている。この生きている間に、その魂を磨き、さらに輝かせて次の世代に引き継ぐという大きな役割があります。だから魂を再生してゆくのです。いわば、運命とは織物の縦糸のようなもの。しかし、人生には「因果の法則」という横糸があるのです。この縦糸と横糸が織り成すものが人生なのです。この因果の法則を立命といいます。良いことをすれば良い結果が導かれ、悪いことを考えれば悪い結果が導かれる。すべて原因と結果の関係、つまり因果の法則なのです。良いことを考え、良いことを聞き、良いことを言って、良いことをする。この様なことを心がけて生活をすれば、必ずその運命というものはやがて変わっていくものなのです。」

雲谷禅師にそう説教された学海長官は、納得して寺を後にします。家に帰り、妻にその日のことを話します。
妻も聡明であったとみえて「判りました。私も一緒に良いことを考えるように努めます。」そうして二人で良いことを実践するように生活を改めたのです。
「息子よ。これがお父さんの歩んできた人生なのだよ。良いことを実践した結果、あの白髪の老人からは絶対に生まれないと予言されたお前さんが生まれてきたのだよ。53歳で死ぬと言われていた私は、既に70歳を越えても元気に暮らしている。良いことを考えるようになってからというもの、白髪の老人の予言はことごとくはずれたのだよ。」

現代社会では、科学で証明されないことは、迷信といわれ片付けられてしまいますが、この本を読んだ時にいろいろ考えさせられました。安岡正篤先生がこの本を発見し、研究されて、人生とはこのようにして出来上がっているのではないか?といわれた名著です。

この本の中に興味深いことが書かれてありました。毎日、良いことを考え、良いことを聞き、良いことを言って、良いことをするために、一つでも良いことがあったら、日記に「○」をつけます。もしも悪いことを聞いたり考えたりしたら「×」をつけるのです。そして○が「+1点」、×が「ー1点」として毎日集計を取ります。そして、その日の合計点数が+1以上になるように努力して、良いことを考え、良いことを聞き、良いことを言って、良いことをするのです。これを続けていくことで、自分の人生は変わっていくであろうと。私は、愛用のi-Phoneに瞬間日記という無料アプリをダウンロードして、毎日○×をつける○×日記を付けています。マイナスの日もあればプラスの日もあるのですが、気持ちが前向きになります。

素粒子と元素と分子

高校の化学の授業は、受験のためだけに勉強していたかも知れません。受験の時、私は化学と生物を選択したのですが、生物は化学の知識がないと難しいし、化学は物理の知識がないと解けない問題があります。

たとえば、生物の浸透圧の問題は、PV=nRTという公式ですが、これは物理の気圧の公式です。さらに化学のモル計算もこのPV=nRTからn=PV/RTになり結局、全部勉強しなければならなくなったのを思い出しました。

宇宙は、今から137億年前にビッグバンという大爆発があったことが始まりとされています。そのころ、宇宙は一握りの素粒子の塊で、その素粒子が、大核融合を起こしビックバンが始まったというのが学者の説です。この素粒子がぶつかり合い、原子が誕生します。この原子は、中性子、陽子、中間子という3つに分かれます。そしてそのそれぞれは、いくつかの素粒子で出来上がっているのです。そして、この原子がぶつかり合って元素が生まれました。一番小さな元素が「H」(水素)元素です。原子番号は1番です。その水素の具体的な構造は、現在科学でもまだすべて解明されていないそうです。そしての水素元素の二倍の重量をもった「He」(ヘリウム)が誕生します。そして順次、リチウム、ベリリウム、ホウ素、炭素、窒素、酸素、フッ素、ネオンと続きます。高校のときに覚えた周期律表です。

やがて、これら元素が化学反応を起こし、アミノ酸が出来上がります。このアミノ酸が重合や縮重合を起こし、たんぱく質が誕生します。このアミノ酸の生成が生命の起源とも言われます。先日、電子顕微鏡によって、たんぱく質が二本足で歩いている姿の撮影に成功したと報道があり、その映像も公開されていました。漫画のように二本足で歩きます。しかし、生命自体の発見はまだされていません。新鮮な内臓や新鮮な骨格、新鮮な血液を用意して、優秀な外科医が縫合し、すべてが元の人間と同じ状態に戻したとしても、それはただの死体に過ぎず、決して生き返ることはありません。全く同じ条件なのに、片方は生きていて片方は死んでいる。以前何かの本で読んだのですが、病院で臨終になった患者の体重を正確に測り続けたとき、死んだ直後に4グラム体重が軽くなったそうです。命とは4グラムなのでしょうか?現代では、科学で証明できないことはすべて迷信とか錯覚とかの部類にいれてしまいがちですが、はたしてそうなのでしょうか?

前述の、陰隲録の話も、著名な陽明学者、安岡正篤氏が生涯をかけて研究したテーマと聞きました。まだまだ、科学で解明されていないことが多すぎます。

新・内海新聞 37号

先日、テレビ東京の「ソロモン流」を見ていたら、料理研究家の青木敦子さんが出演されていた。女性の方はもうご存知の人も多いと思います。調味料の神様といわれる彼女は、食材と調味料の意外な組合せを発明する。

ポテトサラダにごま油をかける。粉末味噌汁にXO醤を入れたり、生クリームを入れる。「えっ!?」といった組合せなのですが、口にした人は皆絶賛する。ただ、意外な組合せを勝手気ままに考えているのではなくて、その食材や調味料に含まれている成分を分析し、味を引き出す組合せを数学的に計算している。それからというもの、私はかばんの中に「粗挽きの黒胡椒」の小瓶を持ち歩いている。好物の熱いココアにふりかけるためです。これだけで甘ったるいココアは大人の味に変身します。

ペンシルバニア州ピッツバーグ

政局が不安定です。その間に時代は急速に動いていく。 しかし、これも見ようによってはビジネスチャンスととれなくもない。 しかし、最近、真剣に国の行く末を考えることが多くなりました。急激な円高でメーカーが悲鳴。何回も繰り返される事態です。モノづくり国家の仕組みの中では仕方ないのかも知れません。昔、友人の竹内一郎君(ベストセラー「人は見た目が9割(新潮文庫)」の著者)がフィリピンに住んでいて、そこから日本をみたとき、テレビや冷蔵庫しかイメージできず日本人の顔が浮かばないと現地の人々が言っていると聞いたことがあります。

新興国の発展で性能差、価格差がなくなりアジア価格という基準ができつつある中でどうすれば良いのだろうか? もちろん、もっとその先の新技術の開発に答えがあるのだろうが、いずれまた同じことの繰り返しかもしれません。そんななかで、一体自らは何をすればいいのか?そんなことを考えてしまいます。その事例として、アメリカのペンシルバニア州にピッツバーグという都市があります。この街の調査をしていてその答えを見つけた気がするのです。 ピッツバーグという街は、戦前は鉄鋼を中心とした工業都市でした。そのため、人口は増大し好景気に沸きました。映画「ディアハンター」の世界です。ピッツバーグスティーラーです。

当時、人口は60万人を超えていました。しかし、街の中は煤煙で汚れ、仕事が終わると白いワイシャツは黒く、夜食事に出かけるにも一旦帰宅して、シャワーを浴びて着替えないと行けないような状況だったようです。ところが、戦後新興国(日本のこと)が発展し、安い鉄鋼が輸入されるようになり、ピッツバーグは衰退していったのです。人口は減り、ホームレスや犯罪が増え、かつての隆盛が嘘のようです。人口は40万人を切りました。しかし、その時の政治家が立派だったのか先見の明があったのか・・・ ピッツバーグをハイテク、保健、教育、金融、サービス業を中心とした地域経済へと移行させていったのです。

現在、ピッツバーグにはカーネギー・メロン大学他11の大学があります。その中でも特に力を入れているのが医学です。 さらに、音楽にも力を入れました。 ピッツバーグ交響楽団は世界的にも有名です。オバマ大統領は、アメリカ合衆国を復活のシンボルとして2009年サミットの開催地をピッツバーグにしたほどです。リーマンショックの時も、その影響をほとんど受けず、求人率は伸び続けました。ピッツバーグの歴史を全肯定するわけではないのですが、日本の未来を示唆しているようにも思います。 この日本がやがて「モノづくりの国からコトづくりの国」に大変貌してゆくことを感じています。もちろん、モノづくりという土台があっての話ですが・・・。工業製品の輸出だけに依存する社会からの脱却が、やがてやってくる。 それが「コトづくりの国」 だと思います。

世界から「日本という国があって良かった!日本人がいてくれて本当に助かった!」と言ってもらえるような国づくりを目指す必要があるとも思います。 高度な技術に支えられた上での「コトづくり」とは、どこかに人の手や人間の介在や温かみや心が宿る産業です。 そのコトづくりの代表が「環境」「教育」「医療」かもしれません。「コトづくりの国」 ということを考えた時ひとつ気づいたことがあります。昔、物理で習った「起電力」や「慣性の法則」です。 電池で電流が流れる時、一番最初は通常以上の電圧が発生します。モーターが回り始めると、やがてその電圧は平均化安定します。またリヤカーを引っ張る時、最初は思いっきり引っ張らないと動き出しません。 しかし一旦動き出すとそれ程の力は要りません。 それと同じような感覚かも知れません。「経済も同じかも知れない。」だから 最初は何か一つの原動力を設定する必要があるのかも知れません。 何でもいい。ひとつの大きな起電力がこの国には必要であると思います。

コトづくりの国

世界から「日本という国があって良かった!日本人がいてくれて本当に助かった!」と言ってもらえるような国づくりってどんなのだろう。 以前、四川で大地震があったとき、日本からも救援部隊が参加しました。しかし、さまざまな事情から現地入りできたのが1ヶ月位経過した頃でした。もう絶望ムードの中での到着です。日本チームは、二酸化炭素を検知する装置や、赤外線で体温を検知する装置など、最新鋭の救助装置をもって救助活動に望みました。 しかし、時すでに遅し。生存者を見つけ出すことができず、しかも二次災害の恐れがあることから急遽帰国ということになったのです。 上の写真は、ようやく瓦礫の中から遺体を出し、台の上に安置し全員で黙とうする日本救助隊員たちです。 この写真は、中国全土を走った。 遺体に黙とうするような救助隊の国はなかったからです。

当時のニュースは「四川大地震被災地での活動を終え、21日に帰国する日本の国際緊急援助隊救助チームが、中国で絶賛されている。 生存者救出こそならなかったが、整列して犠牲者に黙とうをささげた1枚の写真が、中国人の心を激しく揺さぶったためだ。この写真は、援助隊が17日、四川省青川県で母子の遺体を発見した時のもので、国営新華社通信が配信、全国のネットに転載された。インターネット掲示板に賛辞があふれた。犠牲者数万人、遺体は直ちに埋葬という絶望的状況に圧倒されていた中国の人々は、外国、しかも、過去の「歴史」から多くが嫌悪感を抱く日本の救援隊が、二つの同胞の命にささげた敬意に打たれた。

「大事にしてくれた」ことへの感謝と同時に、失われた命もおろそかにしない姿勢は、「我々も犠牲者に最後の尊厳を与えるよう努力すべきだ」(新京報紙の論文)という、中国人としての自省にもつながった。また、あるネットの掲示板でも、 「『困った時に本心が見える』というように、中国が最も困難な時に、日本国際緊急救援隊は援助の手を伸ばしてくれました。この援助は人道主義であり、日本国民の中国人に対する深い友情であり、日中友好の歴史に残ることは間違いありません。中国人は愛し恨む民族であり、恩を決して忘れない民族です。 中国人はずっと『一滴の水の恩も、湧き出る泉ように恩を返す』という美徳を伝えてきました。救援隊の皆さんが尽くした努力や苦労などを中国の国民は決して忘れません」 写真は四川省での救助任務を終えた日本緊急援助隊を迎えるため、成田空港に駆けつけた在日中国人の人々。時期的に現在中国ともめているときの話題としては不適切かも知れませんが、民衆の心を読んだ時、それは普遍だとも思います。この様な積み重ねが重要です。あわせて、この2008年という年は、映画「おくりびと」がアカデミー賞を獲得した年でもあります。 日本人の持つ独特の「命」への価値観というものは大切です。この「命」を育み、「命」を護り、「命」を尊ぶ方向に日本人の存在があるようにも思います。

世界一医療費の安い国 ニッポン

意外に知らないこと。それは日本の医療費が世界一安いということです。たとえば盲腸の手術費用で調べてみても日本では自由診療で約39万円。これは世界最安値です。タイが40万円、インドで45万円。アメリカ合衆国においては驚きの250万円です。ファーストクラスで飛んできて手術をして帰国してもまだおつりがあるという計算になります。国内では、「これに健康保険が適用されるので30%の負担で済みます。さらに高額医療控除があるとさらにお金は返ってきます。日本の医療水準は世界一とは言いませんが、最先端レベルにあります。こんな中で「医療ツーリズム」という言葉が言われ始めています。患者の輸入です。お隣の中国人の治療を日本でしてもらおうという計画です。経済産業省や国土交通省が中心になって準備を進めているようです。なぜか、厚生労働省はあまり動いてはいません。このためには医療滞在ビザの発給が前提になるのですが、日本はまだ実施されていません。年内には法改正が行われると報道はありましたが、日本の医療はまだまだ鎖国状態です。中国から患者がやってくるというのは、言うのは簡単ですがなかなか困難なことが多いのです。診察診療のためのツアーは、中国企業がすべて独占しています。

この分野への参入はまだ時間がかかると思います。今、行われているのは、健康診断のツアーがほとんどです。PETというMRIを使った宿泊型の癌検診のようなものです。また、治療で来日する場合、治療前の状態などを十分に知る必要がありますし、また治療後のケアをしてもらえる中国国内の病院が必要になってきます。病院ごとにこのようなネットワークを構築するのは大変困難なことです。しかし、この医療ツーリズムネットワークが完成すると、当該国の医療費は下がり、日本の国益は上がります。医療をビジネスとしてみるのはいかがなものかとは思いますが、すでに海外では産業となり大きな貿易外収支をあげているのも事実です。反面、ビジネスとして海外の富裕層ばかりを優先にした医療というのは公的な医療保険の給付範囲の縮小に繋がる恐れもあり、国内の地道な診療活動との両立、バランスというものが前提となっていくことになると思います。

新・内海新聞 36号

急激な円高が日本を襲い、輸出型産業は大打撃を受けています。モノ作りの国ニッポンの危機です。何も資源を持たない国家が生きてゆくには、新しい付加価値を創造するしかありません。原料を輸入し、加工して新しい付加価値をつけて輸出する・・・という意味では世界産業の心臓を担っているといえますが、今はピンチです。この機会に新国家の道筋を構築するのも悪くないです。

「モノ作り国家からコト作り国家へ」です。「コト作り国家」とは、いろいろあるでしょうが、最初から最後まで人の手が介在し、そのベースにはモノづくりのしっかりした基盤がある産業です。それは、「教育」「環境」「医療」の3つも該当するのではないでしょうか?コト作りで世界に貢献できる国家ニッポンというのがあっても良いのかも知れません。

二階に上がって、あのぼた餅を食ってやろう・・・

結構、社会に出てから時間が経過しましたが、その節目節目でさまざまな方々との重要な出会いがありました。一番衝撃的な出会いのお一人が株式会社パソナの創業者の南部靖之さんです。人が人に出会うときほど、常識では考えられない偶然というものがあるものです。昭和58年10月、私は兵庫県宝塚市にある中華料理店でコックとして働いていました。「将来は優秀な外科医となって世界で活躍するのだ!」なんて考えて医学部進学を目指していましたが、何の因果かコックの道に進むことになります。昭和51年のことです。

それから7年が経過し、お店も順調に推移するようになっていたある日、お店を閉めて帰り支度をしていました。調理台の上に小さなステンレスのボールに入れた塩や砂糖や醤油や老酒といった調味料が置いてあります。それらにホコリがかからないように新聞紙を被せて帰ります。その為に食器棚の上に古新聞の束を積んでいました。背伸びしてそれを取ろうとした拍子に手を滑らせて、新聞紙の束が床に落ちてしまったのです。二つ折りにしていたところがパンッと開いて、何故かある記事が目に飛び込んで来ました。「素人のあなたを社長にします!」なんだろう?・・・私はその新聞を手にとって読み始めました。もしも、あの時、新聞紙の束を落とさなかったら、また違った人生を歩いていたかも知れません。私は、その記事をヘンケルの料理バサミで切り取り、食器棚にテープで貼り付けて帰りました。翌朝、その記事が再び目に留まりました。そこには、自分のアイデアを企画書にして提案すれば審査の結果では事業家の道が開ける・・・と書いてありました。

さっそく私は、その新聞記事に書かれてあった電話番号に電話してみました。柏森さんという女性の方が出られて、誰でも応募は可能ですが、締め切りは明日の消印まで!ということでした。さぁ、大変。企画書などというものを書いたこともない。しかも時間がない。不思議ですが、私はもうその時応募しようと思っていたのだと思います。その後、いろいろあって、パソナに入社して一緒に事業をやらないか?とお誘いを受け、昭和60年9月1日月曜日から大阪中ノ島の本社に勤めることとなります。恥ずかしい話ですが、パソナに入社するまで、その会社が一体何をしている会社なのかは全く知りませんでした。何か面白いことをさせてもらえる会社という、いい加減な印象しかありませんでした。当然、パソナの創業者である南部靖之さんのことも存じ上げませんでした。配属は営業です。今まで、飲食店のコックでしたので、営業というものをしたことがありません。お客様は黙っていてもやって来るもの・・・と思っていましたので、こちらからセールスに行くということは想像もできませんでした。しかも、パソナの営業はすべて飛び込み営業。見ず知らずの会社にいきなり訪問して売り込んでくる。毎日疲弊しましたが、初めての体験でもあり勉強の連続でした。

当時全社員150名で年間売上150億円の絶好調の時代でした。世の中、人材派遣という言葉も一般的ではなく、まだ労働者派遣法という法律もない時代でした。違法なのか合法なのかと揺れ動くなかで、自分の限られた時間だけ働いて、自分の能力を活かしたいという方々も存在することを実感する毎日でした。そんな中で南部靖之さんとお話ができる機会もできてきました。私にとっては、南部靖之さんのお話をうかがうたびにカルチャーショックの連続でした。今でも耳に残っている口癖が「こだわらない、とらわれない、惑わされない」の創業三原則です。何かをしようとする時の弊害は、すべて自分の中にある・・・ということです。

人の目を気にしていては前に進めない。常識の反対は非常識ではなく、超常識だと、一度決めたことは必ず実行されました。だから部下たちも、絶対に途中で止めることはないという安心感から、全力で突破していく姿勢が生まれました。二人で時々、一緒に朝食をとる機会を頂き、直接お話も伺えました。「いいか、何を目指すのか、なぜ目指すのか?という大義名分が必要なんだぞ。その大義名分を失ったら、事業をする意味がなくなる。そして、その大義名分があるから突破する力やアイデアが生まれるものなんだ。二階に上って、あのぼた餅を食ってやろう!!という強い気持ちが梯子(はしご)というアイデアを生み出すんだ。もしも、二階に上がる目的も何もなかったら、人はきっと途中であきらめてしまうだろう。だから、何かを始めるときは必ず大義名分を見つけるんだ。そしてそこから、絶対に目をそらせてはいけない。」・・・今でもはっきり耳に残っています。

無印良品の週刊誌4コマノート

遂に見つけました。無印良品の「週刊誌4コマノート」実は広告代理店にいた友人に紹介されました。ノートを開くと縦に4コマのマスの枠が書いてあります。1ページ8コマで見開き16コマです。一体何の目的でこのノートが作られたかは不明ですが、いろいろインターネットで調べてみるとマンガを描くのに使っている方が多いようです。しかし、私はマンガを描くために使っているのではありません。一人ブレーンストーミング用に利用しています。要領は以下の通りです。まず、見開きのページの左上○印の部分にタイトルを書き込みます。そして、中心部真ん中の4コマ(太線①~④)がメインになります。

タイトルの要素を4つピックアップして、この4マスの1マスずつ書き込みます。4つなければ、無理やり4つにしてひとつずつ書き込みます。そしてそのひとつの要素からイメージされるアイデアや、懸念事項や解法などを直感的に書き込んでいきます。この内容はどんどん変更しても可です。この16マスのマスが全部埋まるまでは思考を止めません。しかし、どうしても繋がらないマスや、埋まらないマスは出てきます。実はそこが今の自分自身の思考の考えの足りない部分です。この16マスが一杯になったら、この16マスの中でどれかひとつ気になるマスの語彙を見つけ出し、次のページに、再び4マスに要素を分解し、また16マス一杯になるまで埋めていきます。これによって、すべてのことがビジュアルで思考できるようになり、関連性を持って思考を続けていく癖作りができます。

また、このノートを、後で見直すことによってイメージで記憶に残っている内容がさらに鮮明に洗練され、新しいアイデアを生み出す源泉になります。16マスを埋めている中で、今まで十分理解していると思っていた内容が、うまくまとめられなかったり、関連性を説明できなかったりという、「思い込み記憶」を発見することができます。私は、時間があればこのノートをパラパラとめくり、記憶と思考の反芻をしています。ちなみにこの無印良品の週刊誌4コマノートは1冊95円(税込み)です。

褒められること

この月刊「新内海新聞」は、前バージョンの「内海新聞」から数えて10年も経過しました。記念すべきに第一号は2000年4月に発行されています。最初は、30部くらいを作って、社内のスタッフの皆さんに社内報として発行していました。営業の方々が客先にも持っていくようになり、お客様から毎月欲しいという声が出始めて、社外に向けての広報新聞になっていきました。最初は、毎月郵送していました。その数は毎月約3000部に達していました。この内海新聞を通じてさまざまな出会いもありました。たとえばサンマーク出版との出会いです。この内海新聞が編集者の方の目に留まり、単行本を出してみないかということになり、2002年に「出会う人みな仕事の先生」を出版しました。現在では既に絶版なのに、いまだに定価以上のプレミアムが付いているのには驚きの気持ちで一杯です。お客様からも、「毎月楽しみにしています。」とか「コピーして社内で回覧しています。」とかいうお声を頂くたびに感謝とともに責任を感じます。

内容も歴史的な話以外は、必ず自分の体験したことを中心に書くようにしています。そもそも、この内海新聞を発行するようになった原因というのは、自分自身が文字を書くことが好きだったということかもしれません。その好きになった理由というのは、ある出来事がきっかけなのです。私が高校1年生の時、母が突然「台湾に中華料理の勉強に行ってくる。何年後に帰国できるか判らない。」といって一週間後に出て行ってしまいました。残された父と兄妹三人は困りましたが、なんとか協力して生活しました。そして毎月一回、台湾の母の元に手紙を送ろうということになり、兄妹三人は別々に便箋に何枚かの手紙を書きました。その手紙は、必ず父の検閲が入ります。自分の悪口でも書いていると思っているのでしょうか?私は毎月自分の身の回りに起こった事件を描写して書いていました。特に休みになると友人たちとヒッチハイクで無銭旅行をしていて、ある時、琵琶湖半周ヒッチハイクレースに出場して優勝したことがありました。それが嬉しくて、千里が丘のMBS毎日放送前からスタートして、大津の終点までの半周する中で起こった出来事をこと細かく書きました。原稿用紙20枚以上にもなりました。それを読んだ父が、私を呼んでこう言いました。

「お前は将来、物書きになったらよい。文章はでたらめだけれど、表現に華がある。」

生まれて初めて父に褒められました。物書きになろうと思ったことはありませんでしたが、それからは文章を書くことが苦にならなくなりました。さまざまな作文のコンテストにも入賞したり、交通安全の標語の懸賞応募で賞金をもらったりと、思い返せば結構文章で賞金稼ぎをしていたな・・・と思います。いまだに誤字脱字のでたらめな文章ですが、読んだ方がそのシーンを頭の中に思い浮かぶような書き方をしたいと思います。今後とも宜しくお願い致します。

新・内海新聞 35号

最近、非常に読み応えのあるインタビュー記事を読みました。サイゼリヤというファミリーレストランの創業者正垣泰彦会長のインタビュー記事です。早川さや香さんという方の取材記事です。
【正垣泰彦会長の生い立ち】
◇1946年、兵庫県生まれ
◇1967年、東京理科大学在学中に、洋食レストラン「サイゼリヤ」を開業
◇1987年、初の駅ビル内店舗を出店。出店数が二十店近くに及び、社長業に専念
◇1992年、商号を株式会社サイゼリヤに変更◇2000年、東京証券取引所1部上場
◇2003年、中国1号店を上海にオープン◇2009年、国内に803店舗、海外に40店舗を展開。
売上高・約883億円。営業利益・約92億円と好調。 事業の成長も興味深いですが、正垣泰彦氏の生き方考え方にも大変興味を覚えました。以下、抜粋してご紹介しま
す。

サイゼリヤ

◆お客様が来ない理由は、値打ちがないから
正垣会長が大学4年生にしてオープンされた、小さな洋食屋がサイゼリヤの原点だそうですが、いきさつを聞かせてください。 僕は大学生のとき、社会勉強がしたくて、アルバイトばかりしていました。新宿の飲食店で、皿洗いを始めたんですが、きつい重労働でみんなすぐ辞めちゃう中、僕は率先してやっていたんですよ。なにか、人に助かった、といわれるのを喜ぶような感覚があったかもしれません。

そしたら板前さんが「おまえは変わり種だ。料理人にしてやる」と、料理を仕込んでくれるようになりました。やがて大学の卒論も迫り、アルバイトを辞めようとしたら、板さんを始め、仲間が「自分達も辞める」って言うんですよ。「おまえは大学に行くより、食べ物屋をやったほうが向いている。みんなついていくから」と。それなら、仲間の働く場をつくろうと決意して、千葉県の本八幡にあった36席の洋食屋を譲り受けたんです。

--それがサイゼリヤの原型ですね。はい。これがまぁ~辺鄙な場所にある売れない店でして。お客さんがまるで来ないんです。一生懸命、お惣菜のおまけを出したり、プラカードを持って駅に立って最終電車の乗客を連れてきたりしたんですけど、それでも足りない。仲間にお給料が払えないので、困りました。だから真夜中までお店をやるようにしたら、酔っ払いの人達が来るようになりました。転機は、恐ろしい形でやってきた。客の殴り合いのケンカがきっかけで、倒れたストーブの火が燃え広がり、店が全焼したという。店を始めて、たった9ヶ月で燃えちゃった。それで本八幡から新宿の実家まで、トボトボ歩いて帰って、お袋に「燃えちゃった。もうやめるよ」と言ったんですよ。そしたら「火事だなんて、それは良かったね」って言うんです。「その店をもう一度やり直すこと。おまえのためになるように、自然が、そういう出来事を起こしてくれたんだからね」って。

母の言葉に、ハッとした正垣は、この場所でもう一度やらせてくれと大家さんに頼みこみ、今度こそと奮起した。だが客足はたいして増えないまま、売れない時期は4~5年続く。「仲間に給料を払える、安定した組織をつくるにはどうしたらいいのだろうか?」物理学を学んできた正垣の、分析力に火がついた。1回食べたら、やみつきになって、繰り返し食べたくなるような食材はないのか。世界中の消費を調べたんです。70年代当時、世界で一番多く種類が作られているのは、トマトだった。それからパスタ、チーズの消費も伸びていました。これだと思って、ヨーロッパに調査に行ったんです。

--スペイン、フランス、スイス、イギリス、ドイツと各国を回り、本場の味を確かめてイタリアのローマの店に、衝撃を受けた。食前酒、前菜、スープ、パスタ、メインディッシュ、デザート…と、食事の仕方がバラエティ豊かで、組み合わせも自由自在。水ひとつ取っても、ガス入りとガスなしがある。食後酒だって、その店オリジナルの食後酒があるんですから。

--カルチャーショックを受けた正垣は、店をイタリアンにリニューアルした。それでも、お客さんは来ない。お袋にまた愚痴ったんです。すると、「階下に八百屋さんがあるから、工夫が必要なんだよ。場所のせいにしないで、野菜を飛び越えてでもお店に来てもらえるにはどうしたらいいか考えなさい。」やっとわかったんです。お客が来ない理由は、場所(他人)のせいじゃなくて、商品(自分)に原因があるからだ。ひどい場所でも、価格より値打ちがある商品を出せば、お客さんは来るはずだと。

--発想の転換ですね。 じゃあ同じ品質・同じ商品を安くして、お客さんが値打ちがあると判断するのはどの分岐点か? 実験をしたんです。ふつう“利益”というと、この値段でこれだけお客が来たら、いくら儲かるっていう考え方をするから値段を下げられない。優先順位=お客さんにとって値打ちがあるか、だけなんです! それでずーっと値段を下げ、7割近く値引きしたところで、ドーッとお客さんがやって来ました。今度は店の回転が追いつかなくなって、待ってるお客さんに迷惑かけないにはどうしたらいいか考え、近くにお店を出店してったわけです。最初のお店が、悪条件だったから、同じやり方でどこへ出店しても、一杯になりました。

正垣会長の死生観

◆ひとり勝ちと言われても、楽しくない
--「最悪の環境」だと思っていたサイゼリヤを、母の示唆もあって「最高の店」と思えたときから、正垣は「どんな時、どんな場所でも、いま自分の居る状況・状態は、常に最高だ」と考え続けている。 売れなくて利益も出ないっていう状態こそ、本人にとっては最高のことなんですよ。理由があって利益が出ないんだけど、その理由を“自然”が教えてくれてるんですから。その“自然”の沙汰によるものか、2008年に試練がもたらされた。

サイゼリヤが輸入した中国産ピザ生地から、自社検査の結果、有毒物質メラミンが検出された。健康に影響のない、ごく微量だったが、サイゼリヤは謝罪会見を開き、その期間に購入した全客への払い戻しを発表。レシートがなくても返還するとしたため、該当しない心ない要求もあった。しかし、自分にできる最高のことをすればいいと僕は思いましたよ。お客さんの信頼に対し、我々がどうするのか試されていると。

“人のために・正しく・仲よく”っていうのがサイゼリヤの理念なんです。正しく対応しただけです。正しく=自分だけでなくみんなが幸せになること。仲よく=同じ目的をもつ同士で、切磋琢磨したいってことです。人って、つい自分の得を考えてしまうけど…そういうコーポレートカルチャーのために集う集団=会社だと思う。だから、ひとり勝ちとか、株をあげたとか言われても、楽しくないです。また何か試練が起きてくれないかなと思うくらい。本当のことを言うとね、困難があったときに乗り越えられる秘訣は、そうなった因果関係を正しくみつけることなんです。利益が出なかったり、大変な事件が起こったりするのは、自分達が何かをやった結果、そうなってるんですから。その対策って、自分本位のままでは見えないんです。他人本位じゃないと、正しさが見えなくって、潰れてしまうんですよ…

◆病気や死も、最高の喜び
死ぬことについては、お袋の言葉を考えるんだけど、お袋って信心深い人でね。世の中っていうのは、すべて慈悲でできている。だから自然っていうのは、最高の状態を保ちながら調和している…それが法則だと思っていたんじゃないですか。何かイヤだと思うことがあるのは、自分たちの考え方がおかしいのであって、考え方を変えなさいという自然のサインだと。だから病気とか、死ぬことは最高の喜びだと思ってるの。死ぬことっていうのはね、もともと自然が与えてくれた、最高の“生”なんだって。それが、なんでそんなに楽しいのかっていうと、「あなたね、人間は、死に向かってずっと歩いていくから、いろんな苦しみがあるんだよ。死にゃ~死なないんだから、最高でしょう」って言うんだ(笑)。「もっといいのは、死ぬことも生きることも同じだってわかりゃ、もっと最高なの。死ぬことがあるから人間って正しく生きようとするし、楽しく生きようとするし」って。

祈りの言葉

--正直、私にはわかったようなわからないような…ですけど、正垣会長は、そういう考えを継いでいますか?
受け継いではいないけど、経験法則として、そのとおりだなと思うし、誰がやってもそうなんじゃないですかって思う。自分の経験の中で、あ、本当にそうなんだなー、火事がなければ今のサイゼリヤはないし、いろんな問題がおきなければ今日はない。考えてみれば、みんなそうだなって。それが、ありのままの、自然の采配かなって。

--自然とは、神とか、宇宙とか、そうしたものと捉えていいんでしょうか。
最後にキリスト教の教えのひとつなのかな? 出典はよくわからないけれど、お袋が教えてくれた「祈りの言葉」っていうのを、お伝えします。これを読むと、どんな生まれで、どんな境遇で、どんな人に囲まれていても関係ない。自分中心でなく、自然のなせることを受け止めればいいって、わかるんです。母は、亡くなる前に、平和の祭典でローマ法王と謁見して、幸せに逝きました。世の中の嫌なことを、最高のことと思って生きた人は、やっぱり最高の死に方ができるって、教えてくれたんですよ。…こんなことを言うのは、変かもしれないけれど、家族として暮らしているときは、ふつうの“お袋”としか思わなかったけど、事業をしているうちに、本当にお袋だったのかな。お袋じゃないんじゃないかなっていう、不思議なオーラみたいな存在に、感じるんです。

【祈りの言葉】
・大きなことを為し遂げるために、力を与えてほしいと求めたのに、謙遜を学ぶようにと弱さを授かった。
・偉大なことができるように、健康を求めたのに、よりよきことができるようにと病気を賜った。
・幸せになろうとして、富を求めたのに、賢明であるようにと貧困を授かった。
・世の人の賞賛を得ようとして、成功を求めたのに、得意にならないようにと失敗を授かった。

確かに“ふつうのお袋”ではなかったのかもしれません。でも、どんな人間の中にもこうした部分は数%はあって、それを徹底してやれるか、やれないか、の違いのようにも思えます。正垣会長は、物理学理論と企業理念をマッチさせ、事業を為されてきましたが、母上から受け継いだスピリッツがなければ、ここまで大きな仕事にされたでしょうか。親の役目、先輩の役目ということについても、改めて考えさせられる思いです。
引用/(取材・文/早川さや香)http://c.filesend.to/plans/yuigon/index.html

新・内海新聞 34号

NHKの大河ドラマ「龍馬伝」もいよいよ第三幕の長崎に入りました。長崎といえば、私は何度も足を運びました。何か不思議と縁を感じる地でもあります。友人がオランダ坂を登った活水女子大学の横に事務所を開いていて遊びに行きます。長崎に行って思うことは、歴史的な街であるのに歴史的な場所が消えてしまっていることです。

なぜなのでしょうか?過去を消してしまいたいのでしょうか?出島も埋め立てられて今では跡形もありません。ポルトガル人やオランダ人の居留していた場所も、土の下に埋まっています。かつての長崎の街に復活して欲しいものです。ある方にこんな話を聞きました。第二次世界大戦の時、広島に続いて長崎にも原子爆弾が投下されました。長崎は広島ほど原子爆弾のことに関して情報がありません。実は、原子爆弾投下後、終戦になったとき、直ちにアメリカ軍は長崎に進駐し、原爆の被災跡を片付けて撤収したそうです。それは、投下したところが大浦天主堂。カトリック教会でした。このことが世界に知れると大変なことになると、跡形もなく片付けたそうです。

西郷隆盛の本当の顔

上野公園にある西郷どんの銅像。この銅像の顔が別人であると以前から言われ続けてきました。もともと暗殺を恐れていた写真嫌いの西郷さんは、生前の写真が残っていないのです。死後、イタリア人画家・キヨソーネが明治16年に隆盛の弟・西郷従道と、隆盛の父方の従弟・大山巌をモンタージュしたもの(写真左)だといわれています。上野公園の銅像公開の際に招かれた西郷夫人糸子は「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」といった意の薩摩弁を漏らしたといいます。さて、ここに一枚の写真があります。福井藩松平春嶽公のもとにあったと伝えられる写真(右)です。字が間違っていますが裏に「西郷吉之助」とかかれて書かれてあります。右から二人目の人物です。一番右の人物が西郷さんらしき人物の左肩に手を置いています。考えてみれば薩摩軍の最高司令官の肩に手を置くなどという失礼なことはするはずがないと思うのですが、写真嫌いの西郷さんが嫌がるのを無理やり押さえて写真に収めたとも考えられます。

しかし、このずんぐりむっくりとして、たまねぎのような頭では、銅像の西郷さんとは全く違います。史実的に天下の賢侯である春嶽公を訪問したとしてもおかしくはありません。私は、この西郷さんのたまねぎ頭の写真ではなく、一番注目したのはもう一人の人物です。写真の一番左に座っている人物です。古い写真でボケているのですが、履物に注目していただきたい。この人物だけブーツを履いているようにも見えます。この時代にブーツを履いていた変わり者といえば、ただ一人しかいません。坂本龍馬!春嶽公と坂本龍馬はかねてから親交がありましたし、その坂本龍馬が西郷さんを春嶽公に引き合わせたという可能性もあります。しかし、こんな証拠もありませんし、政治的に敵対していた幕府と薩摩が慶応年間に密会していたというのは怪しい話ですが、そんなことを考えながら眺めていると空想が広がります。写真では伝えられる顔と少し違うような気もしますが・・・・。

以前、出張で鹿児島県に何度か行ったことがあります。また旅行でも数回訪れています。西郷さんが西南戦争で最後に立てこもったという城山にある洞穴も見てきました。街のあちこちに西郷さんの逸話や、絵がありました。本当に今でも鹿児島の方々に愛されているのだというのが良くわかります。以前、鹿児島出身のタレントのはしのえみさんがラジオで話していましたが、10代20代の女性に、将来結婚したい相手は、ベッカムか西郷さんかどっち?というアンケートで堂々西郷さんが勝ったそうです。これはすごいことです。鹿児島出張の時、地元の方々が歓迎の宴を開いてくださいました。黒豚やきびなごや焼酎など美味しいものがずらりと出て大変盛り上がりました。

その時私は「九州に来るのは本当に久しぶりなんです。」と言った時、急に周囲の空気が止まりました。
「かごんまは九州じゃなか!(鹿児島は九州とはちがうぞ!)」と叱られたのです。
日本を作ったのは俺たちだ、という自負があるのでしょう。
「今の東京はどうだ?なにかニュースはないか?」と東京の情報を聞きたがることにも大変驚きました。

鹿児島に行って少し気になることがひとつあります。それは鹿児島が生んだもう一人の幕末の英雄「大久保利通」の銅像がないことです。どこにいってもありません。銅像どころか、大久保利通いわれの場所の案内も何もありません。街の人に聞いても何も知りません。あとで、解ったことですが鹿児島では大久保利通は西郷隆盛を追い込んだ裏切り者として見られていたようです。しかし、大久保利通がいたからこそ近代日本が動き出したことも事実です。赤坂見附にあるホテルニューオータニの前には大久保利通候遭難の場所として暗殺現場に大きな大きな慰霊碑が建っています。世間では評価されているのに、そのご当地ではあまり評価されていないといえば、先ほど登場した坂本龍馬もそのようです。観光資源としては坂本龍馬は大切ですが、地元の人はそんなに思い入れがないようです。土佐出身の友人の話によると、高知県というのは南は太平洋北も東西も山々。完全に閉鎖された地域です。その閉鎖された地域の中で頑張って成功した人物が評価されるということです。一度土佐を出た者は二度と戻ってこないと言われているそうです。
「坂本龍馬は土佐を捨てて出て行った人物、それほどの思い入れもありません。」とは友人の弁。
「それは君の個人的な感想ですか?」と聞くと「いや、ほとんどの高知の人間はそう思ってると思うよ。」とは驚きです。

坂本龍馬が歩いた距離

自称龍馬おたくの私の自慢の宝物が、龍馬愛用の銃です。何丁ももっていたようですが、このスミス&ウエッソン2型32口径は、長州藩の高杉晋作から拝領したものと伝えられています。昔、高知にある坂本龍馬記念館に展示してあるその銃を見てからどうしても欲しくなり、レプリカではありますが、数年前に同タイプのものを入手しました。

高杉晋作は上海でこの銃を購入。その後、信頼の証として龍馬に手渡しています。しかし、実際のこの銃は、京都寺田屋事件の時に紛失しています。その後、スミス&ウエッソン1型22口径を持ち歩き、京都近江屋での遭難事件で、この銃を取り出すまもなく暗殺されています。妻の話によると、薩摩に手の傷の湯治に訪れた際、お龍とともに山に上がってこの銃で鳥を撃ったり、魚を撃ったりして遊んだそうです。

そんな活動的な坂本龍馬が5年間に歩いた距離を聞いて驚きました。4万1千キロ!地球一周に相当するそうです。どうしたらそんなに歩けるのでしょう?

いま、アースマラソンで頑張っている吉本新喜劇の間寛平さんが2008年12月17日に大阪を出発してすでに1年あまり。2ヶ月間のがん治療はあったものの、ものすごいスピードで走っています。途中ヨットによる太平洋大西洋横断を含んで、現在カザフスタン共和国。この調子だと来年の夏ごろには日本に戻って来れそうです。これを考えても坂本龍馬の走破の速さはすごいです。ただ走っているのではなく、さまざまな場所で商談交渉をしたり海戦に参加したり、移動していないときも相当あったはずなのに想像を絶するスピードです。

ただ、単純に4万1千キロを5年で割ってみると1年間に8200キロ。1日に22キロを歩き続けたことになります。休みなく毎日22キロ歩き続けるのは尋常ではない。また、別の計算だと東京-大阪間を34往復した計算になります。驚き以外にありません。余談ですが当時の飛脚はもっと早く走ったようです。当時の郵便は、仕立てというものがあって、江戸・大坂間を三日半で運んだようです。もちろん全工程一人ではないと思いますが。その費用もべらぼうに高い。当時のお金で7両2分。現代だと50万円以上ということになります。今では考えられません。しかし、坂本龍馬は全国から土佐の姉の乙女や京のおりょうに130通以上もの手紙を送っていますが、その費用はどういう風にして工面したのでしょうか?また、全国を移動した時の費用などは一体どのようにして工面したのでしょうか?

わが夫坂本龍馬

以前、少しだけご紹介しましたが、「わが夫坂本龍馬」という本があります。朝日新書から出されています。明治32年頃の西村ツル(おりょう)からの聞き書きです。その頃おりょうは60歳。おりょうへの取材回想録「反魂香」という文庫に掲載されました。当時は思いつくままの話で、時系列でもなく勘違いもありで、難解な文章だったということです。これが、昨年口語体で再編集され、出版されたのがこの本です。記録したのは元海援隊士安岡金馬の三男・安岡秀峰です。海援隊士の菅野覚兵衞(千屋寅乃助)の妻はおりょうの妹の君枝でその関係で安岡が取材できたのだと思います。安岡は当時郵便局員でおりょうの家に訪問し記録したようです。

その中の一文に「龍馬はそれはそれは妙な男でして、まるで他人さんとは一風違っていたのです。少しでも間違った事はどこまでももとを糺さねば承知せず、明白に謝りさえすればただちにゆるしてくれまして、『この後はかくかくせねばならぬぞ』と、丁寧に教えてくれました。」

外面と考えていることが違っている人物だったようです。また気になる文章もあります。
「龍馬が死ぬると間もなく、陸奥宗光が京都の芸者をおおぜい連れて来て、中の島へ船を浮べ、菊の御紋の付いた縮緬の幕を張りめぐらし、呑めや唄えの大騒ぎ、その中には新撰組のやつもいたそうです。これを聞いた寺田屋のお登勢は、足ずりして口惜しがり、「龍馬さんが生きていたら頭も上らない陸奥さんも、目の上の瘤が取れてみると勝手な真似をしやぁがる。龍馬さんや中岡さんを殺したやつらに陸奥さんは、かかりやってはいないかしら」と言ったそうです。

・・・このあたり、歴史には出てこない部分でよく解りません。また、寺田屋事件後、薩摩屋敷に出向く用事の時、男装した話があります。「この伏見屋敷で一月一杯おりましたが、京都の西郷さんから京の屋敷へ来いと兵隊を迎えに寄越してくれましたから、ちょうど晦日に伏見を立って、京都の薩摩屋敷へ入りました。この時、龍馬は創(きず)を負っておるからと駕籠に乗り、私は男装して兵隊の中に雑って行きました。」まだまだ、おりょう目線での坂本龍馬像が登場します。当時としてはそうとう高齢ですし、記憶も定かでないぶぶんもありすべてが事実とはいえませんが、ちょうど第三幕からの龍馬伝に登場する場面が中心に書かれていますのでお奨めです。