新・内海新聞 19号

今月号は先月からの続きです。昭和60年から昭和63年の頃の話です。「営業」ということが、モノを売りにいく活動だということを、初めて知ったのもこの頃です。体力的に大変でしたが、時代はもうそろそろバブルに突入の兆し。なにもかもが躍動して動き出す気配がありました。

バブルはその後大変悲惨な結果を作り出すことになりますが、多くの優れた人材を生み出す良い機会であったともいえます。様々なトライアルができたすばらしい時期でもありました。陰陽五行説でいえば、「権力集中の時代」から「混乱の時代」です。今までの常識が一切使えず、新たにルールを作り出せる人が伸びていった時代とも言えるのではないでしょうか?

株式会社リョーマ

前号でお話したように、昭和60年に人材会社に転職し、いままでとは全く違う世界でしたので、毎日が楽しくて仕方ありませんでした。「落下傘攻撃」×「じゅうたん爆撃」という肉弾戦のような営業の毎日でしたが、楽しかったです。

それは、自分自身の工夫でいろいろと次の展開が変わってゆくことに気付いたからです。その頃、毎日朝の4時に起床。5時に大阪府吹田市の江坂のアパートから自転車で、1時間かけて京橋のOBPにあるオフィスまで通っていました。これは、給料が安かったので、定期代の節約のためです。朝の6時にオフィスに入り、9時の始業までの3時間、昨日の報告書のチェックと、今日の営業戦略を考えるのが日課でした。9時と同時に会社を飛び出して「落下傘攻撃」×「じゅうたん爆撃」・・・。夜の7時頃までこの営業が続きます。すでに私は30歳を超えていたので、20歳代の若い営業マンと勝負するのは体力的にはきつかったですが、そこは負けん気でカバーでした。

医療関係の人材サービスの開発でしたので、競争相手も少なく、一旦波に乗れば結構広げられました。そんなある日、本社の事業開発部の手伝いをしてくれ、といわれてある会議に出席しました。それは、大学生たちを集めた会議で、学生のアイデアをビジネスに!というテーマでした。なぜ、私が呼ばれたのか判りませんが、一緒に会議に出ることになりました。集まった学生の中で一人、とっても良く喋る大学生がいました。関西学院大学の3年生ということですが、その話すビジネスアイデアがあまりにも面白く、強烈な印象でした。

彼の名前は「真田哲弥」。
今、IT部門で彼の名前を知らない人はいないくらい超有名人になりましたが、当時はまだ無名の大学生です。彼は仲間二人と大阪の西中島南方というところにあるワンルームマンションで会社を経営していました。これにも驚きです。大学生が会社経営??!!

当時は「マイライセンス」という社名で、合宿の運転免許の申し込み代行サービスをしていました。当時の合宿免許は免許取り消しになったドライバーが再交付のためにやってくる暗くて退屈なイメージのものでした。真田さんは、この合宿免許にテニス教室やスキー教室などのサークル色をつけて、「おまけに運転免許も取得できるテニススクール」ということに変えてしまったのです。そうしたら、女子大生の応募が急増し、それに釣られて男子学生も急増。結局日本一の合宿免許の取次店になってしまいました。その頃私は9時に会社を飛び出して、そのまま真田さんの会社に直行し、いろいろアイデアのディスカッションをすることが多くなりました。

その後、坂本竜馬のように時代を変えるような仕事がしたい!と株式会社リョーマという会社を設立し、マーケティング会社として様々な企業のコンサルティングを開始しました。時代はそろそろバブル景気に突入の頃。企業もいよいよ人材不足になり新卒学生の採用も困難な時代になってきました。そういう中で株式会社リョーマに対して、大手企業の人事部から新たな採用手法の開発依頼も増えてきました。まさに時代の波に乗るというのはこういうことなのか・・・ということを目の当たりにしました。もちろん、私の仕事も大忙しとなり、本社では受注をとっても人材がいなくて売上にならない、いわゆる積み残し受注が年間150億円を超えました。

人材ビジネスが急成長する時代に突入したのでした。真田哲弥さんと私は、一回りも年齢が違いましたが、私にとってはアイデアビジネスの師匠でした。あれからすでに20数年経ちましたがいまだに、当時の「真田節」は変わらず元気に頑張っておられます。真田哲弥さんは、その10年後、「サイバード」という会社を創業し、携帯電話とインターネットを接続するという世界で始めてのシステムを考え出し、携帯コンテンツ事業に乗り出します。真田哲弥さんに続けと、若い経営者が彼の作った轍に乗ってどんどん拡大し、モバイルコンテンツという世界に類を見ない新しい産業が実現することになります。

転職博覧会

昭和62年。まさに時代はバブル突入。人手不足で、どこもかしこも求人広告だらけ。人材会社にいた私が、その激動の時代を最前列で観察できたことは、人生で大きな収穫でした。

そんな中、不思議に思うことがありました。人材ビジネスは様々な形態で変化成長してゆきましたが、採用手法というのは、昔と全く変わりません。求職者が会社を訪問し、履歴書、職務経歴書を提出。面接官が面談し採用を決定。この段階で力関係は既に決まっており、自分の良い部分だけを見せようとする求職者と、相手の欠点や嘘を見破ろうとする採用面接官とのせめぎ合い。

「なんとか、先入観無く求職者も面接官も同じ目線で話ができて無理のない就職活動ができないものか?」

私はそんなことを考えました。この履歴書というものを最初に提出するから、力関係ができてしまう。この履歴書を出さない採用方法は無いものか?そうして考え付いたのが「転職博覧会」でした。東京ビックサイトで開催される見本市のような、企業情報を展示し、そこに多くの求職者が見学にやってくる。

各ブースを回って、いろいろ質問して回る。この段階ではまだ履歴書は出しません。自分の身分や所在も明かさない。とにかく企業情報の収集に徹することができる。その後、気に入った企業があれば、別の小部屋で商談するというスタイルです。

既に今では一般的ですが、当時日本で始めてのアイデアでした。私は、医療関係の人材サービス会社に籍がありましたので、仕事が終わった就業時間後に再び手作りのパンフレットを持って、夜の7時から9時頃まで、転職博覧会に出展してくれる企業募集の営業をしました。その時間は大体効率の悪い残業をしているので、突然の営業でも面白がって会ってもらえました。夜の7時以降は営業のゴールデンタイムであることを発見します。

大阪の商工会議所の300坪の大ホールを予約し、業者を決めて、造作の打ち合わせをしなくてはなりません。私は、悪知恵を出して土曜日の夕方とか日曜日とかに、所属する人材会社の本社の役員会議室を無断で借り、そこに業者を呼んで打ち合わせをしました。当時業界トップの人材会社でしたので、新規事業だと勝手に業者さんは考えて、「支払いもいつでもいいです。格安でさせてもらいます。」と言ってくれました。まさか、私が個人で始めるとは誰も夢にも思っていませんでした。その後、これが本社役員に知れることとなり、こっぴどく叱られましたが、企画自体が面白すぎるので、グループ全体で全国開催することになり、新会社を設立し、その代表に私が就任することになりました。

仕事に恋をする!

今から21年前の昭和63年。会社を立ち上げたばかりの頃の話です。当時、普通のことをしていたのでは目立ちませんので、まったく新しい方法での人材採用を提案する事業を次から次へと始めました。それが日経産業新聞に取材していただけることになりました。取材当日やってきた記者は一方的しゃべる奇妙な人でした。年齢も同じくらい。そして私は直感的にこの記者に興味を持ちました。「ただものではないな・・・・。」

その記者の名前は「竹内一郎」といいます。竹内さんが取材してくれた記事は日経産業新聞に掲載されました。これが縁で、竹内一郎さんとは良く会うようになり、飲みにいったり食事をしたり、とってもウマが合いました。ある日、彼はビールを飲みながらこんなことを話してくれました。「仕事の方はどう?うまくいってる?仕事は大変でしょ?そんな時いつも思うんだけど、『仕事に恋をする』・・・って感覚が大事なんだ。恋をしたら四六時中彼女のことを考えるでしょ?それと同じ。仕事は考え続けることができた人の勝ちなんだ。だから仕事に恋をしなさい!」「今度、大々的に取材するからね。5~6ページの特集をするよ。でも今はまだだめ。まだ機が熟していないから。何年か後にまた取材に来るからね。待っていてください。」それから3年後、約束どおり彼は取材に来てくれました。ちょうど年商が1億円を超えた記念の年でした。

竹内さんの本職は作家です。作家では食べていけないので日経の記者を嘱託でしていました。私の特集取材をしてくれた翌年、彼は戯曲「星に願いを」という脚本で文部大臣賞を受賞。だんだんとその世界で有名になっていきました。彼のスゴイところは観察眼の鋭さです。ある日、彼は私に「あなたは日本経団連の会長にはなれないけれど、きっと副会長にはなると思うよ。」と言ってくれました。この意味は、「ベンチャー経営者というのは時代の寵児と言われる人が多いけれど、その枠から離れることができず、時代が既に変わっているのに、それに気付かずに潰れていく人が多い。その点あなたは全く執着心が無い。時代に合わせてどんどん舟を乗り換えてゆける柔軟性がある。副会長ってそういうことのできるポジションなんだよ。」まぁ、それはどうだろうか?よくわかりませんが、そんなことを言ってしまう人です。最近では「人は見た目が9割」(新潮新書)という本が大ベストセラーになり、超売れっ子作家になりました。今でも戯曲作家は続けており、自ら率いる劇団を持っていてて、時々、舞台を見に行かせてもらっています。