新・内海新聞 3号

2008年が始まりました。本年もどうぞ宜しくお願い申し上げます。
「細部に神宿る」 Detail pays dividends.
少し、宗教的ですが、私の大切にしている言葉です。本当に些細なところにこそ真実が隠されています。うっかりすると見逃してしまいそうなことこそ注意を払い、そこに潜む真実を見つけなければならない。今は、大きなうねりばかりに目が奪われてしまいがちですが、こういう時こそ日常の些細なところに次の予兆が隠されているのかもしれません。 編集長

再び、エルトゥールル号の遭難

↑以前の内海新聞にも書きました。
和歌山県の南端に「大島」という島があります。この島には日本で一番古い石造りの灯台があるそうです。そして、その灯台は今もあるそうです。

1890年9月16日、和歌山を台風が襲いました。午後9時頃、大島の沖合いで大きな爆発音がしました。灯台守は、嫌な予感を感じました。波は、海岸の岩場に打ち付けます。その時、台風で舵の効かなくなった木造軍艦が灯台に向けて押し流されてきたのです。全長76メートルあったといわれる大型船です。しかも、板切れが流されるように、風と波でどんどん近づいてきました。やがて、船は海岸の岩場に打ち付けられて真っ二つに裂けました。エンジンにも水が入り、大爆発を起こしたのです。乗組員は海に放り出され波にさらわれました。真っ暗で荒れ狂う海にどうすることもできなかったといいます。

一人の水兵が岩に打ち付けられ、傷だらけになりながらも岩場に打ち上げられました。かすかな意識の中で、灯台の明かりが見えました。
「あそこにいけば助かる!」
急に力が湧いてきました。40メートルもある崖をよじ登り、ようやく灯台にたどり着きました。水兵の服はもぎ取られ、裸同然でした。全身傷だらけで真っ黒に腫れあがっていました。灯台守はその水兵を見つけましたが外国人で言葉が通じませんでした。

灯台守は「バンコク信号書」を見せて、この水兵がトルコ人であることがわかりました。そして船はトルコ海軍の軍艦であることもわかりました。灯台守は応急手当をしましたが、他の水兵の救助のための村人を呼びに戻りました。

電灯もない真っ暗な夜道、人一人がやっと通れる道をひたすら走りました。村人たちと灯台に戻ってくると、10人ほどのトルコ人がいました。全員傷だらけです。この村は50軒くらいしかない貧しい村でした。村人は総出で崖を降り救助をしました。

遠い国からやってきて、見知らぬ日本で死んでゆく水兵を見て、村の男たちは泣いたそうです。
「一人でも多く救ってあげたい!」
「死ぬな、元気を出せ!」そして助かった人は69名でした。
この船の名を「エルトゥールル号」といいました。

救助された人は寺と小学校に収容されましたが、村には電気、水道、ガス、電話などありません。井戸もなく、水は雨水を貯めて使っていました。サツマイモとみかんを栽培していました。これを串本でお米と交換して生活する貧しい村でした。各家庭にニワトリを非常食として飼っていました。

このような村に69名の外国人が収容されたのです。生まれて初めて見る外国人をどうしても助けたいと村人は思いました。台風で漁ができず、食料はすぐに底をつきました。
「もう食べさせてあげるものがない」
「どうしよう」一人の婦人が言いました。
「ニワトリが残っている!」もうこれを食べてしまったら何もなくなる・・・
「大丈夫、お天とう様が見守ってくださる。」
最後に残ったニワトリを料理して水兵たちに与えました。

こうして、トルコ人は一命を取り留めたのです。村人は遺体を引き上げ丁重に埋葬しました。この遭難の報は和歌山県知事に伝えられ、そして明治天皇にまで言上されました。明治天皇は直ちに医者、看護婦の派遣を指示し、さらに礼を尽くし生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還なされました。日本全国から弔慰金が寄せられトルコの遭難者家族に届けられました。

この話には後日談があります。その事件から100年近く経った1985年3月17日の出来事です。イラン・イラク戦争でサダム・フセインが48時間後にイラン上空を飛ぶすべての飛行機を打ち落とす命令を下します。イランにいる日本企業の人たちやその家族はあわててテヘラン空港に向かいましたが、すべて満席で乗れない。日本政府の対応も遅くパニック状態になったのです。その時、2機のトルコ航空機が到着し、日本人215名全員を乗せて成田に向けて飛び立ちました。タイムリミット1時間15分前でした。なぜ、トルコ航空機が来てくれたのか?日本政府もマスコミも知りませんでした。

前駐日トルコ大使、ネジアティ・ウトカン氏は「エルトゥールル号の事故に際し、日本人の献身的な救助活動を、今もトルコ人は忘れない。そのご恩返しです。私も小学生のときに歴史教科書で学びました。トルコでは子供たちでさえエルトゥールル号の話を知っていますよ。」こう静に述べられたそうです。

ノルマントン号事件

ノルマントン号事件(Normanton Incident)とは、1886年(明治19年)10月24日にイギリス船籍の貨物船、ノルマントン号が、紀州沖(和歌山県東牟婁郡串本町潮岬沖)で座礁沈没した事から始まった事件です。

まさに、前述のエルトゥールル号の遭難の4年前の出来事です。場所も時期もほとんど同じだったのです。1886年10月24日、ノルマントン号事件が起きました。この日紀州沖でイギリスの貨物船ノルマントン号が沈没しましたが、この時イギリス人の乗務員が全員脱出したのに、乗っていた日本人の船客23人は全員水死しました。

この事件に関して、当時イギリス人に対する裁判権はイギリス領事にありました。そしてこの領事の裁判の結果、船長は無罪となりました。これはイギリス人など白人を優先的に救助し、日本人・中国人は後回しにした結果、溺死したという噂が流れ、日本国民の怒りが爆発しました。

その4年後、エルトゥールル号事件が起こります。当然、ノルマントン号事件のことは大島の方々にも聞こえていたでしょうに、彼らは誠実に遭難者を救い上げ、自分たちの食料も分け与えました。
「目の前にけが人がいるじゃない!人間として助けるのが当たり前でしょ!」
そんな島のおばちゃんの声が聞こえてきそうです。ところでノルマントン号事件のあと、どうなったのか?それは以下の通りです。

——日米修好通商条約の条文第六条 日本人に対し法を犯せるアメリカ人はアメリカ領事裁判所にて吟味の上アメリカの法度を以て罰すべし。アメリカ人へ対し法を犯したる日本人は日本役人糾しの上日本の法度を以て罰すべし。

政府は、このような問題を引き起こしている不平等条約の改正を実現するため、まずは日本が欧米と対等な力を持つ国であることをアピールする必要がありました。

そのため外務卿・井上馨らが中心になって国内の法典の整備に務めるとともに、日本にも西洋風の社交クラブを作ろうと鹿鳴館を創設しました。(もっとも当時の西洋人から見れば鹿鳴館は場末の酒場程度のセンスでできていたとのことです)。そしてその後任の大隈重信を経て、その次の外務大臣陸奥宗光がイギリスと精力的な交渉を行い、1894年、ついに領事裁判権の撤廃などを含む新条約を締結することに成功しました。

桑田真澄選手と松井稼頭央選手

元巨人軍、いや大リーガーの桑田真澄さんがすごく気になります。子供の頃からの夢を実現した満足感が、発言の中にあふれている。ピッツバーグ退団時のインタビューでも「何も悔いはない」「メジャーリーガーになれた充実感でいっぱい」 など、清々しい表情で語っています。

しかも、来期も大リーガーに挑戦するという。桑田選手も自分のやり残した夢に決着をつけるために、楽しんで旅に出たのでしょう。

2003年、ある新聞の広告に「新人になろう」という掲載がありました。ある方に教えてもらい感動しました。現大リーグロッキーズの松井稼頭央選手。その広告にはこうありました。

松井稼頭央、 大リーグ挑戦。このニュースはなぜ、僕らの心をこんなにも躍らせるのだろう。活躍が予感できるから、という理由もあるけれど、それだけじゃない。きっと、彼ほどの実績を残した選手が、もう一度スタートラインに立とうとする姿勢に、心が騒ぐのだと思う。気持ちひとつで、人はいつでも新人になれるという単純な事実に、ワクワクするのだと思う。

高度経済成長とかバブルとか、そんな言葉たちのせいで、一度頂点を見てしまった気分のニッポン。でも最近この国にも、再びスタートラインに立とうという気概が、満ちてきたように思う。

さて、2008年。僕らもスタートラインに立ちませんか。

新人になりませんか。
気持ちひとつでいいんです。
よく笑う新人。
ちゃんと怒る新人。
上司に意見できる新人。
部下を叱れる新人。
子供ともっと過ごす新人。
親との時間を増やす新人…。

自分にとって新しい試みをすれば、誰だって新人です。「どこまで自分が伸びるか楽しみです」松井選手の眼前に広がる、青く澄んだベースボールパーク。それはカタチを変えて、私たちの前にも広がってゆくはずです。
「新人になろう」。