内海新聞 31号

先月。北京に行って来ました。5ヶ月ぶりでしたが、前回とまた風景が変わっていました。ビルが建ち、道が出来て、新しいお店がオープン。ものすごい勢いでした。2008年に中国でオリンピックが開催されます。北京にいる友人のベンチャー経営者が話してくれました。2008年に経済的なすべての面で日本と並びます。やることが一杯で忙しい忙しい。目がキラキラと輝いていました。

人間 本田宗一郎さんを語る(2)
語り:元本田宗一郎執事 原田一男氏

今回も、前回に引き続き、本田宗一郎さんの元執事の原田一男さんによるお話の第二弾です。いよいよオートバイの誕生の場面です。

【バタバタの元祖誕生】
そんなある日、本田さんは焼け野原に放置されていた一つの部品を発見しました。よく見ると、それは元陸軍が無線発信機用に使用していた小型エンジンであることが判りました。本田さんは、それを大事に持ち帰り、試行錯誤を繰り返すうち、ひとつのひらめきを感じ取ったのです。こんな小型エンジンを自転車に取り付け、動力源にしたら画期的な乗り物ができる。

自動車もない日本には、またとない乗り物として歓迎されることは間違いない、と確信を持たれたのです。それからの本田さんは、まず焼け野原の中から小型エンジンを拾い集めることから始めました。それを探し出しては持ち帰り、我が家の自転車に取り付けてははずし、それを繰り返すうち、ふと気づくと、このエンジンには供給するガソリンを入れるタンクがないことに気づき、家の中を探しまわっているうちに、ブリキ製の「湯たんぽ」を発見。それを自転車にくくりつけてみると、まことにエンジンに似合うタンクだったので、「これだ!」と決め、近所の荒物屋に行って売れ残っているものを買い占めて参りました。

それからは、これらの部品を自転車に取り付ける作業の繰り返しでした。そして、2,3日後からはエンジンの始動開始です。本田さんの住む屋敷内からは、エンジンの音がひっきりなしに流れていました。こうして低地テストが終わると、本格的な路上テスト。一般道路を走行するのですから、往来する人に迷惑をかけてはいけないと思って、わざわざ農道のような通行人の少ない悪路を探しながらテストを繰り返す日々でした。路上テストを何回も何回も繰り返し、これなら安心となったところで、次はさち婦人に乗ってもらう。

「これなら大丈夫ね。」というお墨付きが出るまで乗ってもらう・・・というおしどり夫婦の走行テストは、地元ではちょっとした評判にもなりました。バタバタと音を立てて走る自転車こそ、本田のバタバタの元祖そのものでありました。このバタバタが完成したことで、本田さんの「人間休業」も終了されました。

【本田技術研究所】
そして一年後の1946年(昭和21年)九月には、浜松市山下町に本田技術研究所という町工場がつくられ、本格的な企業の第一歩を踏み出しはじめたのでした。この年、本田さんは39歳。拾い出した小型エンジンを活用して自ら作り上げた自転車用補助エンジン(通称バタバタ)は、たちまち街の人気ものとなって、われもわれもと、乗るようになり、生産が予約に追いつかぬ程の活況を呈するようになりました。

また一方では、本田さん考案の新たなA型自転車補助エンジンの生産開始もあって、人気は上昇。オートバイの試作品も見え始めたことで、生産工場の増設が要求され始めていました。1948年(昭和23年)九月には、資本金百万円、本田技研工業株式会社として再出発。自ら取締役社長に就任するも当時は従業員数わずか20名でした。そして、その一ヶ月後に初めて浜松市内に営業所を開設しました。

その翌年(昭和24年)八月、本格的なオートバイ「ドリーム号」の発表を行いました。その後、本田さんは、知人を介して藤沢武夫さんを知り、初対面で意気投合。早速、常務取締役として迎え入れたことで、後になって有名となった二人三脚の経営体制が出来上がったのです。その頃のご両人、本田さんは浜町住まい、藤沢さんは東京住まい。二人はめったに会うこともなかったのですが、最初の対面の話し合いでしっかり二人の心と心の結合と、信頼性が強く生まれたことで、度々会う必要もなかったようでした。

本田さんは、技術者として良い製品を創り出す。一方藤沢さんは営業面での成果を上げ、経営発展に努め、お互いの分野をわきまえながら、高度への成長に努力する。お二人はいつもそんな気持ちで二人三脚の道をとられてきたものと思われます。(次号に続く)

携帯電話は携帯リモコン?

携帯電話・・・
私が高校2年生のとき、大阪万国博覧会が開催されました。会場が大阪千里丘というところで実家の近くだったので、何回も通いました。月の石を展示しているアメリカ館はいつも2時間待ちの大行列でした。そんな中で好きなパビリオンがありました。電電公社のパビリオンだったと思います。ドームのようなところに、携帯電話が展示してありました。携帯電話というよりコードレスホンのような大きなものでした。。無料で使えたので友人の家に何度もかけて遊んだのを覚えています。その後30年の間に急激な進歩を遂げ、手のひらに乗るような大きさまで進化し電話だけの機能からさまざまな付加機能が付きコンピュータの様になってきたのはご存知の通りです。これから、携帯電話はもう一つの持ち運び型コンピューターになってゆくのでしょうか?

私は会社にも家にもパソコンがあり、さらにモバイル用にカバンにもパソコンが入っています。そこにさらに携帯電話型のパソコンが加わるともう持て余してしまいいそうです。私は携帯電話に伸ばして欲しいあたらしい機能があります。簡単にいうとそれは、「携帯のリモコン」です。リモコン機能といってもテレビやビデオのリモコンではありません。サーバーを遠隔から利用する「サーバーリモコン」です。

これからパソコンはブロードバンドという常時接続が標準になってくるでしょうし、テレビとパソコンの溝がせばまり、パソコンとテレビが一体になってゆくことでしょう。時間を気にせずにコンピュータを利用できるようになります。そうすると、データを蓄えるハードディスクはどんどん大きくする必要があります。やがてパソコンの中にデータを貯めるのではなく、どこか別にデータを預けるようなデータの銀行のようなものが出てくるのではないかと思っています。いわゆる「情報信託銀行」です。

現在は企業のデータを預かるデータセンターというものがありますが、私のいうのは「個人用のデータセンター」です。また、映画、音楽、文学、ニュースなど膨大な情報を提供する情報提供会社も、もっとどんどん現れてくると思います。そんな中で、携帯電話のリモコン装置を通じてデータの移動ができれば助かるなぁと思っています。

たとえば、新聞を見ていて今晩みたい映画があれば、ポケットから携帯電話を取り出し、映画専用の情報提供会社から自分の情報信託銀行の口座に見たい映画のデーターを移動しておきます。携帯電話で映画を見るのではありません。家に帰って、パソコンテレビのスイッチを入れれば、自分の情報信銀行の口座に振り込まれた映画のデータをとりに行き、すぐにその映画を見ることができます。あるいは、通信販売の購入したいものが見つかれば、その詳しい情報を通信販売の情報提供会社から、自分の情報信託銀行の口座に移動しておきます。帰宅すると、「あなたの口座にデータが入っています」というメッセージが届いていて、データを移動しておいたことを思い出します。

つまり、毎日忙しく働く人が、外出先で見つけた情報を、興味を持っている旬の間に、簡単に自分の口座に携帯電話のリモコン機能を使って移動しておける。携帯電話もデーターを貯め込む様な受身的な利用方法だけではなくて、反対にデータや情報を送る事を中心にした能動的な使い方があっても良いようにも思っています。ブロードバンドという、つなぎっぱなしのパソコンであれば、大きなデータの移動でも気兼ねなしに利用できます。携帯電話の容量を増やしてパソコン化するのではなく、家や会社のパソコンをサポートする機能です。もちろん、現在の携帯電話にはこんな機能はありませんが、これがあれば便利だなぁと思っています。

NHK番組の「プロジェクトX」とイッセー尾形さんのコント

ある友人とNHK番組の「プロジェクトX」の話をしていました。
「あの番組を見るたびに涙がでるんだよね。」と言ったら「それはもう歳ですよ!」と返事が返ってきました。やっぱり、あの番組を見て涙がでるのは、歳を重ねて何か共通の体験をしたとか共有できるものができたからなのでしょうか?若い人があの番組を見ても、私のような感動はないのでしょうか・・・?その時、昔のことを思い出しました。今から15年ほど前、田舎から東京に出てきて起業した頃です。社員は私一人です。あとは全員が学生のアルバイトでした。

ある日、コメディアンのイッセー尾形さんの舞台チケットを何枚か貰いました。イッセー尾形さんは、サラリーマンの日常を風刺するコントで人気を博しています。私は当時大学3年生だったアルバイトの林尚司君にチケットを渡しました。何人かのアルバイトたちでその舞台を見に行ったようです。

翌日、「どうだった?面白かったでしょう?」私が質問すると
「全然面白くない。周りは皆大爆笑なんですが、なぜおかしいのか僕たちには解らないんです。」
そう言っていました。

社会人の経験が無い彼らには、共有できる体験が少なく、その笑いの意味が通じなかったのでしょうか。今度、林君に会ったときに、「イッセー尾形をどう思う?プロジェクトXを見て泣いた?」と質問してみようと思います。