内海新聞 30号

両国にある江戸東京博物館で、「本田宗一郎と井深大展」が開催されています。本田さんの方が井深さんより3歳年上です。同じ時代を駆け抜けた天才のお二人です。このお二人がいなければ、日本はだいぶ変わっていただろうな、とも思います。お時間があれば是非ともご見学に行かれてはどうでしょうか? 無から有を生み出したダイナミックな日本人がそこにいました。

人間 本田宗一郎さんを語る(1)
語り:元本田宗一郎執事 原田一男氏

ある方のご紹介で、今年84歳になられる原田一男さんという長年、本田宗一郎さんの執事をされていた方にお会いする事ができました。「本田さんってどんな方だったのですか?」私の質問に原田さんはにこにこ笑って話されました。以下はそんな誰も知らない本田さんの裏話です。

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働き出したら、寝食を忘れ、休むことすら考えようとしない、本田宗一郎さんが生涯でただ一度だけ、それも一年間と限定して「人間休業」を事前に宣言して、自ら休んでしまったことがありました。

【人間休業】
1973年(昭和48年)10月のことであります。当時、本田さん66歳。本田技研工業株式会社の社長をつとめながら、好きな自動車づくりに励んでおりましたが、ある日突然「俺は社長をやめて、明日から銀座の事務所に行って好きなことをやって暮らすから、後はよろしくやってくれ。」と言い残して社長をやめ、銀座一丁目の本田事務所への出勤を始めました。ところが当時は、本田さんを取り巻く周囲の環境は、本田さんの言うとおりにはさせてくれませんでした。

公的、私的の役職就任依頼や技術指導の依頼や講演依頼、それに取材申し込みやら、面談依頼などなどひっきりなし。その上、事務所が東京駅に近いこともあって、地方からの上京者が事前の連絡もなく突然来訪されるなどには、本田さんもいささか面食らった様子で
「これじゃあ、社長をやっていた方が良い。工場に行けば周囲は機械ばかり。無駄口もなければ文句も出ない。それが人間様だと、きげんを取ったり、時にはお世辞の一つも言わなきゃならん。人間関係は複雑だから機械屋の俺には、わからんことばかりだ。」
と、冗談まじりの愚痴もでる位でした。

その本田さんも、過去に一度だけ、自ら「人間休業」を宣言。一年間だけ気ままな生活を送ったことがありました。それは、本田さんが38歳の真夏の8月15日と言えば、ああ、あの日のこととお気づきの人もあろうかとは思いますが、終戦の時の出来事です。

わが国が第二次世界大戦に敗れ、日本国民のすべては緊張の糸が切れてしまい、あたりを見渡しても街にはほとんど焼け野原。その中を生き残った人々が、すすけた衣類を身にまとい、食物を求めて、そぞろ歩きをしている。どの顔を見ても、明日がどうなるか解らないから、うつろな目をした人ばかりでした。本田さんはそれまで、浜松地方でも有数の東海精機工業株式会社を経営してまいりましたが、その年の初めに東海三河地区を襲った地震で、磐田工場は倒壊壊滅。戦争最中とあって、復興のめどもたたないうちに戦争は激化、B29の来襲も激しく、特に遠州灘に侵入してきた連合軍の艦隊からの艦砲射撃に、この地方の人々はわが身を隠すところもない状態でした。こんな有様の中で終戦となってしまったことから、本田さんは、先のわからぬ日本に失望、当分休業を決意され、ひと思いに会社閉鎖をも決心されてしまいました。

会社の株式を、これまでお世話になってきた豊田自動織機株式会社に買い取っていただき、向こう一年間は遊んで暮らす「人間休業」を宣言し、実行に入られたのでした。

【瓢箪からコマ】
その日から本田さんは自らの生活を変える努力を始めました。今までは良く働き、よく遊ぶと評判されてきただけに、本田さん、果たして遊びだけで過ごせるのだろうかというのは、周囲の人の声でもありました。遊びに入るにしても準備が必要。大人の遊びには、酒は絶対必要。ところが当時、お酒は配給制度になっていたので、入手もなかなか困難。そこで本田さんが考えたのは、薬用アルコールをドラム灌一本ごと買い入れてお酒づくりをはじめることでした。ある程度出来上がったところで、仲間一人に声をかけると、その日の夕方には、遊び仲間数人がそれぞれに酒の肴を持参して寄ってくる。そして、いつの間にやら宴たけなわになって行くのでした。

毎度集まる面々は多士多彩とまではいかないものの、自称モノづくり名人もおれば、本田さん同様の機械造りもいました。唄や踊りや鳴り物好きもいました。「暑いからアイスキャンディーでも食いたいなぁ」と言えば、誰かが材料を集めてきて、キャンディーをつくり、それを近所の子供たちに配る。家庭で配給の塩がなくなったと聞けば、海に行って海水を汲んできて塩作りに励むから、この遊び仲間の人気は上昇してゆきました。(以下次号に続く)

ある酒屋さんの新商売

酒屋さんというのは、御用聞きという訪問販売が一般的です。最近は、ロードサイドの大型安売り店が沢山できてきたので、自動車でまとめて買い物に行くことが多くなってしまいました。酒屋さんの御用聞きは、サザエさんの場面でも時々登場します。

これは、関西のある酒屋さんの話です。しかし、この酒屋のAさんはちょっと違いました。Aさんは昔ながらの御用聞き営業をしていました。毎日、軽トラックでお得意先を回って注文を聞いて回ったり、空びんを回収してゆきます。熟練のAさんは、お客さんのデータベースがすべて頭の中に入っています。巡回のルート。巡回の時間。大体何がそろそろ無くなりそうか。だいたい勘で解ります。そして、昔からのお客様からとても信頼されていました。

ところが、時代とともに周囲の環境が変わってきたのです。周囲には、高層マンションが沢山できてきました。昔ながらのお客様のお家はなくなり、どんどんマンションに変わっていったのです。それでも、Aさんは毎日、いつもどおり御用聞き巡回に出かけます。高層マンションができてから、御用聞きの「ある部分」が変わりました。マンションに軽トラックで向うのですが、そのマンションの中には入れません。なぜなら、ほとんどがオートロックで装備され、玄関から中には入れないのです。仕方なく、玄関で一件すつインターホンを鳴らして「三河屋で~す。」と御用聞きをしてゆきます。

このAさんは考えました。「これは、御用聞きに来てはいるものの、玄関で一件一件電話をかけているのと同じではないのか?これだったら、店から一件一件電話かけて注文とったほうがよっぽど効率的だ。」そう考えたAさんは、さっそく御用聞きを電話に切り替えました。これで人手不足も少し解消し、効率は改善されました。Aさんは、もっと効率アップを図れないものか?考えました。自分が毎日毎日電話をかけるその内容はほとんど同じです。再びAさんは思いつきました。

「そうだ、御用聞きの電話もオートコールの電話マシンに切り替えて、無人でできないものか?注文は機械にやらせて、自分は配達に専念できる。これなら時間に追われることもなく、一件一件配達を丁寧にできる。お客さんともゆっくりお話ができる。」それからコンピュータの勉強そして遂にオートコールマシンを作ってしまいました。いつものお客様の自宅に先方の希望の時間に電話をかけます。相手が出られたら、自動的にアナウンスが流れます。そのアナウンスに添って、電話のプッシュボタンを押してもらったり、録音してもらったりして、注文をしてもらうのです。もちろん、突然このようなサービスに切り替えればお客様からのクレームもあるかも知れないので、充分調査して、承諾いただいたところから始めました。

このコンピュータサービスが伸びてゆくにつれ、様々なところから、「ウチでも導入したいので売って欲しいという酒屋がどんどん現れてきました。ついにAさんは、酒屋をやめ「御用聞きコンピュータシステム」の販売会社を興し、その会社の社長になってしまいました。このサービスの大きな特徴は、顔も知った限られたお客様に限定している点。サービスの内容を御用聞きに限定している点。必ず配達というスキンシップが伴う点。この3つが特徴です。インターネットも、実はこのように、どこかに人間の手が介在し、自分の目の届く範囲で、不便を補う形でシステム化することが、成功の秘訣なのかも知れません。

1分40円のバイキング:時間マーケティングの目指す先

1分40円で食べ放題。食べ始めから終わりまでの所要時間で料金を精算するランチサービスが、大阪と神戸に登場しました。中華料理の東天紅が期間限定で行うもので、その名も「ミニッツバイキング」。急いで食べて安く済ませようと思うか、食べる時くらい時間を忘れたいと思うか。受け止め方は様々でしょう。考えるほどに、時間を利用したマーケティングの奥深さに気づかされます/2002.09.17
(日経ビジネス Express Mailより)

内海新聞16号の「時間を売る」でご紹介しました「タイムランチサービス」が、本当に出現したというニュースです。私は、20年前に、これを企画しましたが、人材派遣会社への転職があって実現しませんでした。当時は理由があって、あくまでランチだけの単発のイベントで考えていました。(詳細は16号を参照下さい。)

場所は、大阪市内の貸し会議室です。11時~14時まで借り、開店は12時~13時です。この時間会議室は比較的空いています。料理はバイキング型式のイタリアンか中華。大きなゴミバケツを沢山設置。後かたづけは、ひたすら捨てるのがコツです。中の収容人数を決めて入り口には2台のタイムレジスターを設置し、このタイムカードを1枚100円で購入してもらいます。

入場と退出時にスタンプ。出るときには、滞在1分いくらで自動計算されます。朝の出勤時に駅前で、本日の開店場所案内のメニューのチラシを撒きます。会議室の関係で、いつも場所が変わるのです。私のアイデアはこんな感じでした。遂にこのようなサービスが登場してきたのだな。今度行ってみようと思います。