内海新聞 31号

先月。北京に行って来ました。5ヶ月ぶりでしたが、前回とまた風景が変わっていました。ビルが建ち、道が出来て、新しいお店がオープン。ものすごい勢いでした。2008年に中国でオリンピックが開催されます。北京にいる友人のベンチャー経営者が話してくれました。2008年に経済的なすべての面で日本と並びます。やることが一杯で忙しい忙しい。目がキラキラと輝いていました。

人間 本田宗一郎さんを語る(2)
語り:元本田宗一郎執事 原田一男氏

今回も、前回に引き続き、本田宗一郎さんの元執事の原田一男さんによるお話の第二弾です。いよいよオートバイの誕生の場面です。

【バタバタの元祖誕生】
そんなある日、本田さんは焼け野原に放置されていた一つの部品を発見しました。よく見ると、それは元陸軍が無線発信機用に使用していた小型エンジンであることが判りました。本田さんは、それを大事に持ち帰り、試行錯誤を繰り返すうち、ひとつのひらめきを感じ取ったのです。こんな小型エンジンを自転車に取り付け、動力源にしたら画期的な乗り物ができる。

自動車もない日本には、またとない乗り物として歓迎されることは間違いない、と確信を持たれたのです。それからの本田さんは、まず焼け野原の中から小型エンジンを拾い集めることから始めました。それを探し出しては持ち帰り、我が家の自転車に取り付けてははずし、それを繰り返すうち、ふと気づくと、このエンジンには供給するガソリンを入れるタンクがないことに気づき、家の中を探しまわっているうちに、ブリキ製の「湯たんぽ」を発見。それを自転車にくくりつけてみると、まことにエンジンに似合うタンクだったので、「これだ!」と決め、近所の荒物屋に行って売れ残っているものを買い占めて参りました。

それからは、これらの部品を自転車に取り付ける作業の繰り返しでした。そして、2,3日後からはエンジンの始動開始です。本田さんの住む屋敷内からは、エンジンの音がひっきりなしに流れていました。こうして低地テストが終わると、本格的な路上テスト。一般道路を走行するのですから、往来する人に迷惑をかけてはいけないと思って、わざわざ農道のような通行人の少ない悪路を探しながらテストを繰り返す日々でした。路上テストを何回も何回も繰り返し、これなら安心となったところで、次はさち婦人に乗ってもらう。

「これなら大丈夫ね。」というお墨付きが出るまで乗ってもらう・・・というおしどり夫婦の走行テストは、地元ではちょっとした評判にもなりました。バタバタと音を立てて走る自転車こそ、本田のバタバタの元祖そのものでありました。このバタバタが完成したことで、本田さんの「人間休業」も終了されました。

【本田技術研究所】
そして一年後の1946年(昭和21年)九月には、浜松市山下町に本田技術研究所という町工場がつくられ、本格的な企業の第一歩を踏み出しはじめたのでした。この年、本田さんは39歳。拾い出した小型エンジンを活用して自ら作り上げた自転車用補助エンジン(通称バタバタ)は、たちまち街の人気ものとなって、われもわれもと、乗るようになり、生産が予約に追いつかぬ程の活況を呈するようになりました。

また一方では、本田さん考案の新たなA型自転車補助エンジンの生産開始もあって、人気は上昇。オートバイの試作品も見え始めたことで、生産工場の増設が要求され始めていました。1948年(昭和23年)九月には、資本金百万円、本田技研工業株式会社として再出発。自ら取締役社長に就任するも当時は従業員数わずか20名でした。そして、その一ヶ月後に初めて浜松市内に営業所を開設しました。

その翌年(昭和24年)八月、本格的なオートバイ「ドリーム号」の発表を行いました。その後、本田さんは、知人を介して藤沢武夫さんを知り、初対面で意気投合。早速、常務取締役として迎え入れたことで、後になって有名となった二人三脚の経営体制が出来上がったのです。その頃のご両人、本田さんは浜町住まい、藤沢さんは東京住まい。二人はめったに会うこともなかったのですが、最初の対面の話し合いでしっかり二人の心と心の結合と、信頼性が強く生まれたことで、度々会う必要もなかったようでした。

本田さんは、技術者として良い製品を創り出す。一方藤沢さんは営業面での成果を上げ、経営発展に努め、お互いの分野をわきまえながら、高度への成長に努力する。お二人はいつもそんな気持ちで二人三脚の道をとられてきたものと思われます。(次号に続く)

携帯電話は携帯リモコン?

携帯電話・・・
私が高校2年生のとき、大阪万国博覧会が開催されました。会場が大阪千里丘というところで実家の近くだったので、何回も通いました。月の石を展示しているアメリカ館はいつも2時間待ちの大行列でした。そんな中で好きなパビリオンがありました。電電公社のパビリオンだったと思います。ドームのようなところに、携帯電話が展示してありました。携帯電話というよりコードレスホンのような大きなものでした。。無料で使えたので友人の家に何度もかけて遊んだのを覚えています。その後30年の間に急激な進歩を遂げ、手のひらに乗るような大きさまで進化し電話だけの機能からさまざまな付加機能が付きコンピュータの様になってきたのはご存知の通りです。これから、携帯電話はもう一つの持ち運び型コンピューターになってゆくのでしょうか?

私は会社にも家にもパソコンがあり、さらにモバイル用にカバンにもパソコンが入っています。そこにさらに携帯電話型のパソコンが加わるともう持て余してしまいいそうです。私は携帯電話に伸ばして欲しいあたらしい機能があります。簡単にいうとそれは、「携帯のリモコン」です。リモコン機能といってもテレビやビデオのリモコンではありません。サーバーを遠隔から利用する「サーバーリモコン」です。

これからパソコンはブロードバンドという常時接続が標準になってくるでしょうし、テレビとパソコンの溝がせばまり、パソコンとテレビが一体になってゆくことでしょう。時間を気にせずにコンピュータを利用できるようになります。そうすると、データを蓄えるハードディスクはどんどん大きくする必要があります。やがてパソコンの中にデータを貯めるのではなく、どこか別にデータを預けるようなデータの銀行のようなものが出てくるのではないかと思っています。いわゆる「情報信託銀行」です。

現在は企業のデータを預かるデータセンターというものがありますが、私のいうのは「個人用のデータセンター」です。また、映画、音楽、文学、ニュースなど膨大な情報を提供する情報提供会社も、もっとどんどん現れてくると思います。そんな中で、携帯電話のリモコン装置を通じてデータの移動ができれば助かるなぁと思っています。

たとえば、新聞を見ていて今晩みたい映画があれば、ポケットから携帯電話を取り出し、映画専用の情報提供会社から自分の情報信託銀行の口座に見たい映画のデーターを移動しておきます。携帯電話で映画を見るのではありません。家に帰って、パソコンテレビのスイッチを入れれば、自分の情報信銀行の口座に振り込まれた映画のデータをとりに行き、すぐにその映画を見ることができます。あるいは、通信販売の購入したいものが見つかれば、その詳しい情報を通信販売の情報提供会社から、自分の情報信託銀行の口座に移動しておきます。帰宅すると、「あなたの口座にデータが入っています」というメッセージが届いていて、データを移動しておいたことを思い出します。

つまり、毎日忙しく働く人が、外出先で見つけた情報を、興味を持っている旬の間に、簡単に自分の口座に携帯電話のリモコン機能を使って移動しておける。携帯電話もデーターを貯め込む様な受身的な利用方法だけではなくて、反対にデータや情報を送る事を中心にした能動的な使い方があっても良いようにも思っています。ブロードバンドという、つなぎっぱなしのパソコンであれば、大きなデータの移動でも気兼ねなしに利用できます。携帯電話の容量を増やしてパソコン化するのではなく、家や会社のパソコンをサポートする機能です。もちろん、現在の携帯電話にはこんな機能はありませんが、これがあれば便利だなぁと思っています。

NHK番組の「プロジェクトX」とイッセー尾形さんのコント

ある友人とNHK番組の「プロジェクトX」の話をしていました。
「あの番組を見るたびに涙がでるんだよね。」と言ったら「それはもう歳ですよ!」と返事が返ってきました。やっぱり、あの番組を見て涙がでるのは、歳を重ねて何か共通の体験をしたとか共有できるものができたからなのでしょうか?若い人があの番組を見ても、私のような感動はないのでしょうか・・・?その時、昔のことを思い出しました。今から15年ほど前、田舎から東京に出てきて起業した頃です。社員は私一人です。あとは全員が学生のアルバイトでした。

ある日、コメディアンのイッセー尾形さんの舞台チケットを何枚か貰いました。イッセー尾形さんは、サラリーマンの日常を風刺するコントで人気を博しています。私は当時大学3年生だったアルバイトの林尚司君にチケットを渡しました。何人かのアルバイトたちでその舞台を見に行ったようです。

翌日、「どうだった?面白かったでしょう?」私が質問すると
「全然面白くない。周りは皆大爆笑なんですが、なぜおかしいのか僕たちには解らないんです。」
そう言っていました。

社会人の経験が無い彼らには、共有できる体験が少なく、その笑いの意味が通じなかったのでしょうか。今度、林君に会ったときに、「イッセー尾形をどう思う?プロジェクトXを見て泣いた?」と質問してみようと思います。

内海新聞 30号

両国にある江戸東京博物館で、「本田宗一郎と井深大展」が開催されています。本田さんの方が井深さんより3歳年上です。同じ時代を駆け抜けた天才のお二人です。このお二人がいなければ、日本はだいぶ変わっていただろうな、とも思います。お時間があれば是非ともご見学に行かれてはどうでしょうか? 無から有を生み出したダイナミックな日本人がそこにいました。

人間 本田宗一郎さんを語る(1)
語り:元本田宗一郎執事 原田一男氏

ある方のご紹介で、今年84歳になられる原田一男さんという長年、本田宗一郎さんの執事をされていた方にお会いする事ができました。「本田さんってどんな方だったのですか?」私の質問に原田さんはにこにこ笑って話されました。以下はそんな誰も知らない本田さんの裏話です。

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働き出したら、寝食を忘れ、休むことすら考えようとしない、本田宗一郎さんが生涯でただ一度だけ、それも一年間と限定して「人間休業」を事前に宣言して、自ら休んでしまったことがありました。

【人間休業】
1973年(昭和48年)10月のことであります。当時、本田さん66歳。本田技研工業株式会社の社長をつとめながら、好きな自動車づくりに励んでおりましたが、ある日突然「俺は社長をやめて、明日から銀座の事務所に行って好きなことをやって暮らすから、後はよろしくやってくれ。」と言い残して社長をやめ、銀座一丁目の本田事務所への出勤を始めました。ところが当時は、本田さんを取り巻く周囲の環境は、本田さんの言うとおりにはさせてくれませんでした。

公的、私的の役職就任依頼や技術指導の依頼や講演依頼、それに取材申し込みやら、面談依頼などなどひっきりなし。その上、事務所が東京駅に近いこともあって、地方からの上京者が事前の連絡もなく突然来訪されるなどには、本田さんもいささか面食らった様子で
「これじゃあ、社長をやっていた方が良い。工場に行けば周囲は機械ばかり。無駄口もなければ文句も出ない。それが人間様だと、きげんを取ったり、時にはお世辞の一つも言わなきゃならん。人間関係は複雑だから機械屋の俺には、わからんことばかりだ。」
と、冗談まじりの愚痴もでる位でした。

その本田さんも、過去に一度だけ、自ら「人間休業」を宣言。一年間だけ気ままな生活を送ったことがありました。それは、本田さんが38歳の真夏の8月15日と言えば、ああ、あの日のこととお気づきの人もあろうかとは思いますが、終戦の時の出来事です。

わが国が第二次世界大戦に敗れ、日本国民のすべては緊張の糸が切れてしまい、あたりを見渡しても街にはほとんど焼け野原。その中を生き残った人々が、すすけた衣類を身にまとい、食物を求めて、そぞろ歩きをしている。どの顔を見ても、明日がどうなるか解らないから、うつろな目をした人ばかりでした。本田さんはそれまで、浜松地方でも有数の東海精機工業株式会社を経営してまいりましたが、その年の初めに東海三河地区を襲った地震で、磐田工場は倒壊壊滅。戦争最中とあって、復興のめどもたたないうちに戦争は激化、B29の来襲も激しく、特に遠州灘に侵入してきた連合軍の艦隊からの艦砲射撃に、この地方の人々はわが身を隠すところもない状態でした。こんな有様の中で終戦となってしまったことから、本田さんは、先のわからぬ日本に失望、当分休業を決意され、ひと思いに会社閉鎖をも決心されてしまいました。

会社の株式を、これまでお世話になってきた豊田自動織機株式会社に買い取っていただき、向こう一年間は遊んで暮らす「人間休業」を宣言し、実行に入られたのでした。

【瓢箪からコマ】
その日から本田さんは自らの生活を変える努力を始めました。今までは良く働き、よく遊ぶと評判されてきただけに、本田さん、果たして遊びだけで過ごせるのだろうかというのは、周囲の人の声でもありました。遊びに入るにしても準備が必要。大人の遊びには、酒は絶対必要。ところが当時、お酒は配給制度になっていたので、入手もなかなか困難。そこで本田さんが考えたのは、薬用アルコールをドラム灌一本ごと買い入れてお酒づくりをはじめることでした。ある程度出来上がったところで、仲間一人に声をかけると、その日の夕方には、遊び仲間数人がそれぞれに酒の肴を持参して寄ってくる。そして、いつの間にやら宴たけなわになって行くのでした。

毎度集まる面々は多士多彩とまではいかないものの、自称モノづくり名人もおれば、本田さん同様の機械造りもいました。唄や踊りや鳴り物好きもいました。「暑いからアイスキャンディーでも食いたいなぁ」と言えば、誰かが材料を集めてきて、キャンディーをつくり、それを近所の子供たちに配る。家庭で配給の塩がなくなったと聞けば、海に行って海水を汲んできて塩作りに励むから、この遊び仲間の人気は上昇してゆきました。(以下次号に続く)

ある酒屋さんの新商売

酒屋さんというのは、御用聞きという訪問販売が一般的です。最近は、ロードサイドの大型安売り店が沢山できてきたので、自動車でまとめて買い物に行くことが多くなってしまいました。酒屋さんの御用聞きは、サザエさんの場面でも時々登場します。

これは、関西のある酒屋さんの話です。しかし、この酒屋のAさんはちょっと違いました。Aさんは昔ながらの御用聞き営業をしていました。毎日、軽トラックでお得意先を回って注文を聞いて回ったり、空びんを回収してゆきます。熟練のAさんは、お客さんのデータベースがすべて頭の中に入っています。巡回のルート。巡回の時間。大体何がそろそろ無くなりそうか。だいたい勘で解ります。そして、昔からのお客様からとても信頼されていました。

ところが、時代とともに周囲の環境が変わってきたのです。周囲には、高層マンションが沢山できてきました。昔ながらのお客様のお家はなくなり、どんどんマンションに変わっていったのです。それでも、Aさんは毎日、いつもどおり御用聞き巡回に出かけます。高層マンションができてから、御用聞きの「ある部分」が変わりました。マンションに軽トラックで向うのですが、そのマンションの中には入れません。なぜなら、ほとんどがオートロックで装備され、玄関から中には入れないのです。仕方なく、玄関で一件すつインターホンを鳴らして「三河屋で~す。」と御用聞きをしてゆきます。

このAさんは考えました。「これは、御用聞きに来てはいるものの、玄関で一件一件電話をかけているのと同じではないのか?これだったら、店から一件一件電話かけて注文とったほうがよっぽど効率的だ。」そう考えたAさんは、さっそく御用聞きを電話に切り替えました。これで人手不足も少し解消し、効率は改善されました。Aさんは、もっと効率アップを図れないものか?考えました。自分が毎日毎日電話をかけるその内容はほとんど同じです。再びAさんは思いつきました。

「そうだ、御用聞きの電話もオートコールの電話マシンに切り替えて、無人でできないものか?注文は機械にやらせて、自分は配達に専念できる。これなら時間に追われることもなく、一件一件配達を丁寧にできる。お客さんともゆっくりお話ができる。」それからコンピュータの勉強そして遂にオートコールマシンを作ってしまいました。いつものお客様の自宅に先方の希望の時間に電話をかけます。相手が出られたら、自動的にアナウンスが流れます。そのアナウンスに添って、電話のプッシュボタンを押してもらったり、録音してもらったりして、注文をしてもらうのです。もちろん、突然このようなサービスに切り替えればお客様からのクレームもあるかも知れないので、充分調査して、承諾いただいたところから始めました。

このコンピュータサービスが伸びてゆくにつれ、様々なところから、「ウチでも導入したいので売って欲しいという酒屋がどんどん現れてきました。ついにAさんは、酒屋をやめ「御用聞きコンピュータシステム」の販売会社を興し、その会社の社長になってしまいました。このサービスの大きな特徴は、顔も知った限られたお客様に限定している点。サービスの内容を御用聞きに限定している点。必ず配達というスキンシップが伴う点。この3つが特徴です。インターネットも、実はこのように、どこかに人間の手が介在し、自分の目の届く範囲で、不便を補う形でシステム化することが、成功の秘訣なのかも知れません。

1分40円のバイキング:時間マーケティングの目指す先

1分40円で食べ放題。食べ始めから終わりまでの所要時間で料金を精算するランチサービスが、大阪と神戸に登場しました。中華料理の東天紅が期間限定で行うもので、その名も「ミニッツバイキング」。急いで食べて安く済ませようと思うか、食べる時くらい時間を忘れたいと思うか。受け止め方は様々でしょう。考えるほどに、時間を利用したマーケティングの奥深さに気づかされます/2002.09.17
(日経ビジネス Express Mailより)

内海新聞16号の「時間を売る」でご紹介しました「タイムランチサービス」が、本当に出現したというニュースです。私は、20年前に、これを企画しましたが、人材派遣会社への転職があって実現しませんでした。当時は理由があって、あくまでランチだけの単発のイベントで考えていました。(詳細は16号を参照下さい。)

場所は、大阪市内の貸し会議室です。11時~14時まで借り、開店は12時~13時です。この時間会議室は比較的空いています。料理はバイキング型式のイタリアンか中華。大きなゴミバケツを沢山設置。後かたづけは、ひたすら捨てるのがコツです。中の収容人数を決めて入り口には2台のタイムレジスターを設置し、このタイムカードを1枚100円で購入してもらいます。

入場と退出時にスタンプ。出るときには、滞在1分いくらで自動計算されます。朝の出勤時に駅前で、本日の開店場所案内のメニューのチラシを撒きます。会議室の関係で、いつも場所が変わるのです。私のアイデアはこんな感じでした。遂にこのようなサービスが登場してきたのだな。今度行ってみようと思います。

内海新聞 29号

先日、知り合いから「良い温泉旅館を知らないか?」と言われてご紹介したのが伊豆下田にある【花のおもてなし「南楽」(なんらく)】です。21種類もの天然温泉風呂があり、ほとんどが貸し切りにできます。食事もサービスも良く、ご紹介して泊まられた方は絶賛でした。→0558-62-0171

秀逸「ワン切り」マーケティング

なにごとも人の印象とは本当に流動的なものだと思います。いったい何が人の印象を決定していくのか?人の意見を気にせず、純粋にまっすぐそのものを見て判断することはとても大切なことだと思っています。世の中で必要ないと思われているものでも、見る角度によっては、とても重要なヒントが隠されている場合もあるのです。判断の基準ですが、私は生粋の関西の商人ですので答えは簡単です。「損か?得か?」「儲かるか儲からないか?」だけです。これは何も金銭的なことだけではありません。

(1)それが世間相場よりも価値があるかどうか?
(2)自分にとって必要なものかどうか? という2点です。

余談ですが、子供の頃、何か珍しいものを友人に見せて自慢すると、その時に出る質問はいつも同じです。「どこで見つけたん?」「それ、なんぼやった?」の2つです。関西では、すでに子供のころから「損得勘定」が備わっています。世の中を今騒がしている「ワン切り」ですが、私はなかなか巧妙なマーケティング手法だと思って関心しています。これはいわゆる、「電話のダイレクトメール」です。

想像してください。あるところから、自宅に郵便のダイレクトメールが送られてきたとします。その封筒をみて、ハナから興味がなければそのままごみ箱へポイ!です。興味があれば開封して詳しい内容を見ます。

では「ワン切り」はどうでしょうか?「今からご案内しますよ」という合図のベルを一回鳴らしますが、それだけです。かかって来た方も興味がなければ、電話をかけ直さなければ良いだけです。しかも、この段階では、電話代金は掛かりません。そう考えると、ワン切りも「電話のダイレクトメール」です。

ところで、今でもよく送信されてくる、迷惑メールも同じようなものですが、基本的に違う点があります。これは着払い郵便なのです。メールを読むには利用料金がかかります。そういう意味ではまだ「ワン切り」のほうがユーザー思考で、とても優れていると言えます。迷惑な電話セールスよりずっとマシです。ただ、これが恐喝という不正行為に使われていることが問題なのです。さて、私は「ワン切り」でこんなメニューを考えてみました。「ワン切り LOTO-6」です。いわゆる宝くじのロト6みたいなものです。 それは、こんな感じです。

「ワン切り LOTO-6」から自宅や携帯に電話が掛かってきます。しかもベルは一回だけ鳴ります。着信には電話番号履歴が・・・「03-3939-6106 (サンキューサンキューろとしっくす)」もちろんこれは仮想の番号ですが・・・。

将来的には、電話番号だけでなく、任意のメッセージも着信履歴として相手の電話に残すことができれば安心できます。つまりベルが鳴るということは、数千万の全国の電話ユーザー中からから選ばれたことになります。すでにこの段階で強運の持ち主です。早速この電話番号に掛け直します。不安であれば「184」を付けて相手に非通知で掛け直してみて、内容だけ確認します。音声で案内が流れます。次にスポンサーのコマーシャルが流れ、それをまず聞かなければなりません。

その後に、LOTO‐6にチャレンジできます。電話のボタンをプッシュして自分の好きな数字を登録します。これで操作は終了です。「ワン切り LOTO-6」の1回限りのベルが掛かってきた方は、その段階で選ばれたわけですから、当選の場合の賞金が2倍となります。

さらに、「ワン切り LOTO-6」の参加費用は無料です。なぜなら最初に流れるコマーシャルを聞くことで、スポンサーが広告費として費用を負担してくれます。当選すれば、当選案内の電話が掛かってきます。もしも、こんなワン切りが流行ったら、みんなワクワクして、1回限りのベルが鳴るのを待っているのではないでしょうか?これが普及すると、掛け直しの確率も高くなり、NTTやNTTドコモの通話料収入も増えてゆくかも?!いやはや、稚拙な企画ですが、そのサービスがその人にとって価値があるかどうかで、印象が大きく変わってきます。新たなマーケティング手法の誕生です。

今のワン切りも工夫次第で変わってきます。ワン切りでかかってきた電話に掛け直すと録音テープが流れます。これはアダルトではなく、教育基金への寄付のお願いテープです。1分間聞くことで100円の寄付金が電話代と一緒に引き落とされます。ワン切りワンコインボランティア。寄付金依頼の攻めの営業活動です。ワン切りという新たなマーケティングの誕生です。世間ではワン切りを排除しようと躍起になっていますが、実はすごい大きなビジネスモデルとビジネスチャンスを失うことになるかもしれません。でも、交換機を輻輳させるような迷惑は絶対にいけません。利用には限度が必要ですが・・・。

エルトゥールル号のまだまだある秘話

これは、聞いた話ですが、内海新聞27号のエルトゥールル号のお話にはいろいろな隠された秘話があるようです。27号に書きましたようにエルトゥールル号は明治23年に台風の影響で和歌山県沖で遭難しました。ところが、このちょうど1年前にも同じように、この和歌山県沖で英国客船が台風で遭難する事件があったそうです。その船は豪華客船で数百人の英国人と約100人の日本人が乗船していたそうです。船は転覆し全員が海に投げ出されました。

英国客船の船長は救難ボートを降ろし、救難活動を行い全員を救助したそうです。しかし、救助されたのは英国人だけで、日本人は全員荒波に飲まれて亡くなったそうです。この話は、英国民を全員救助した英雄として、あちらの小学校の教科書には載っているそうですが、日本人としてはひどい話です。この事件は、当時日本でも報道され、全国から非難の声があがったそうです。

その翌年、同じ場所で同じように外国船が遭難する事件が起こりました。これがエルトゥールル号事件です。日本人として心理的に複雑だったはずなのですが、身を呈して救助にあたった姿が、更に日本国民の心を打ったのだと思います。当時、この話に感動した「山田寅次郎」という人が、一民間人として新聞社などの協力を得ながら全国を歩いて義捐金を集め、それを携えてトルコに渡られたそうです。1892年4月4日、イスタンブールに上陸した山田さんは、当時の外務大臣サイド・パシャ氏に義捐金を手渡し、皇帝アビドゥル・ハミト2世に拝謁しました。

山田寅次郎さんはトルコ側の要請で、そのままトルコに留まって日本語を教え、日本とトルコの友好親善に尽されました。この時の教え子の中には、後にトルコ共和国初代大統領となる、ケマル・パシャ氏もいたそうです。このような、日本人の献身的な行動がトルコ人の心を動かし熱狂的な親日国家となっていったのでしょう。

現在、国連でもトルコはいつも日本側について協力を惜しまないそうです。なお、今回のワ-ルドカップでは、トルコ代表がユニフォ-ムを和歌山県串本町に寄贈されています。

先月号の万年筆の拡大写真

先月号の万年筆のペン先の拡大写真ですが、ごく一部の読者様からちょっと卑猥ではないかとご指摘がありました。実際の写真はもっとペン先らしいのですが、写真編集の段階でちょっとイメージが変わってしまいました。どうぞご容赦下さいませ!

葛飾北斎の流星哲学

シーソーアソシエイツという会社の古村社長は私の広報戦略アドバイザーです。企業の様々な広報活動の事例を毎月レクチャー頂いています。
先日、雑談の中で、私が「夜空の星」が大好きという話をしたら、「葛飾北斎」という浮世絵師の話になりました。

『内海さん。世界の三大巨匠というのをご存じですか?それは、「レオナルド・ダ・ビンチ」「ミケランジェロ」、そして「ラファエロ」ですが、「葛飾北斎」もその中に並び称される偉大な芸術家なんですよ。』と言われました。

北斎といえば教科書で見たくらいで、以前、緒方拳さんの主演で「北斎漫画」という映画があったということぐらいの知識です。北斎は広重のような浮世絵師とはかなり違っていたそうです。

北斎も「星」が大好きで、特に「北極星」がお気に入りだったようです。北斎の「北」は「北極星」の意味なのだそうです。天体の星が北極星を中心にゆっくり回ってゆきます。池の水面に映ったその星の動きを、じーっと眺め続けたそうです。そして、その星の移動する軌跡を紙に写し、それが、すべての版画の絵の基礎になったそうです。北斎の版画の緩やかな曲線はすべて星の動きを描いたものです。

南蛮渡来の望遠鏡をどこからか手に入れ、当時の高層ビルだった、浅草の陵雲閣という浅草十二階のてっぺんから星をのぞいていた、超変人です。生涯で92回引越しをし、自らを「画狂」と呼ばせました。この名前もたくさんあって、まったくもって正体不明。ゴッホやピカソもこの北斎の絵を見てから、そのタッチが変わってしまったという位、世界の絵画に強い影響を与えたそうです。

内海新聞 28号

先日ニューヨークに行って気づいたこと。それは「携帯電話が小さくなったなぁ!」ということです。大半がエリクソンというメーカーですが、アメリカ人の顔の大きさから見たらあまりにも小さい。不器用なアメリカ人ならきっと落とすだろうな・・しかし、誰一人ストラップという紐を付けていません。ここにビジネスチャンス発見。米国人は、まだキャラクター付きストラップに気付いていない模様!

楽しく暮らすということ&税金

聞いた話によると、マンハッタンのダウンタウンでは、昨年9月11日のテロ復興の一環として6月9日から11日まで、レストランの飲食代やホテルの宿泊料、ブティックなどの売上税(日本でいう消費税)が免税になったそうです。たしか、ニューヨークは売上税が8%以上あったと思うのですが、これが免税となったそうです。

8%の免除は大きいと思います。ちょっぴり気が大きくなって、ビールやメニューを一品余分に注文したりするかも知れません。チップもいつもより多めに置いていったりする人も増えたのではないでしょうか?5月にニューヨークに行った時は、このキャンペーンはしていませんでした。大変悔しいですが、もしその時に実施されていたら、おそらく税金タダに釣られて、ダウンタウン経済に貢献したかも知れません。

アメリカの考え方は日本とは少々違うように感じました。アメリカは、お金を使うこと・・・特に贅沢品の買い物をすると「よくやった!」といわんばかりに「減税」をしてくれます。贅沢品といっても高額な商品だけではありません。嗜好品といえばよいのでしょうか?

日本は贅沢品にはどんどん課税され、買い物するたびに、税金が加算されてゆきます。どちらが正しいのか、どちらが国の増収につながるのか、私には判りませんが、アメリカ方式は毎日の生活が楽しくなるような気がしました。ちなみに、この売上げ減税は引き続き継続されるそうです。

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「私は労働というものをしたことがない。なぜなら、毎日の仕事がみな楽しかったからだ。」とは、発明王トーマス・エジソンが言った言葉です。おそらく、大変しんどい仕事でも、楽しく仕事をする彼流の方法を見つけたからこその言葉だと思います。やはり毎日の労働は楽しいこともあればつらい事もあるはずです。

どんな仕事でも楽しくこなす方法を見つけ出すこと・・・これが生き甲斐をもって暮らしてゆくための秘訣かも知れません。先ほどの「税金」も同じような気がしました。毎日が楽しくなるような課税の方法を考えることが、結果的には消費を伸ばし、そして税の増収につながるのかも知れません。

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私は、個人の範囲で、いくつかのボランティアをしています。海外の子供たちのための教育環境整備のお手伝いもしています。

最近も「フォスタープラン」という日本フォスタープラン協会(03-5481-6100)が主宰してる、いわゆる海外版の「足ながおじさん基金」です。ここに入会し、毎月5000円ですが、貧しい国の子供たちの総合的な生活向上支援することにしました。最近、ボランティアに関する内容の相談が、よくあります。ボランティアの情報はどの様にして集めたら良いでしょうか?信用できるボランティア団体はどこでしょうか?

私も何かしたいのですが、どうすればいいですか?私もそんなに詳しいわけではないので、困ってしまうのですが「何かしたい。」「貢献したい。」・・そう思っている人が大変増えてきたように感じます。これは、何かひとつの時代の流れのようなものを感じます。自分たちの独自の生き甲斐を見つけてゆこうという流れなのでしょうか?

政府もこのような様々なボランティア活動に対して、大胆に減税してあげればよいのにとも思います。寄付金に関しては色々あるようですが、活動自体に対しても何かあればと思ったりもします。民間の力でもっと社会貢献を活性化させることができるかもしれません。すべて、お金でのインセンティブにするのも、どうかとは思いますが、それが何かのきっかけになればそれは良いことかもしれません。

今している仕事が世の中のどの部分の役に立っているのか?どの部分に貢献しているのか?そんな事を考える事が、最近多くなっています。

フルハルターから万年筆が帰ってきました

大井町にある万年筆のペン先研ぎ専門店「フルハルター」に預けていた万年筆が3ヶ月ぶりでようやく帰って来ました。預けていたのは「パーカーデュオフォールド・ノーマンロックウェル」という舌を噛みそうな長い名前の万年筆です。私の手の形と書き方の癖を調べて、それに合わせて調整して頂きました。ペン先の調整といっても実感が沸かないと思いますので、顕微鏡写真を参考にして下さい。

左の写真がオリジナルのペン先です。そしてフルハルターで研いでもらったものが右側の写真です、これで一目瞭然です。左の写真のペン先はガタガタですが、研磨の終わった右側のペン先は、真珠のようで、鏡のように自分の顔が映っています。どのようにしたら、こんなに磨けるものか不思議でなりません。書き味は、、今までは紙に引っかかるような感触だったのが、研磨後は、ガラス板の上を滑らすような感覚というのか、油を敷いた上をペン先が滑る感覚というのか、非常に心地いいのです。

こんな万年筆の書き味は生まれて初めてです。私の書き癖は、すでにデータベース化されているようで、、研磨したペン先は永久保証ということです。「何か、不具合があれば、すぐに持ってきてください。満足頂けるように、再調整いたしますから。」あまりもの感動に、さらに2本目の研磨をお願いしました。現在研磨中の万年筆は「モンブランマイスターシュテュック・ルグラン#149」という作家が愛用している軸が極太のものです。仕上がりが大変楽しみです。

大発明!自動値切り機

埼玉県に大手ディスカウントショップの「ロジャースボウル」という会社があります。連日満員の繁盛店です。ここの次男の太田万三彦さんも千葉県で「ジェーソン」という激安ショップを経営する新進若手経営者です。太田さんはコンピューターやシステムが大好きなのです。会社創業の時から、システム部をつくり、コンピューター室をつくりました。そしてアイデアマンなのです。ほかのお店で扱っていないものを探し続けています。彼が考えたヒット商品で有名なものが「雑巾(ぞうきん)」です。

雑巾なんて売れるのか??と思いますが、これがヒット商品となりました。当時、小学校の入学式や始業式で雑巾を持参させることが多いのですが、最近のお母さんは、これが悩みの種という情報を聞きつけました。最近は家で雑巾を手作りで作ることや、使うことがほとんどありません。様々の市販のモップや使い捨てクロスなどがあるため、必要ないのだそうです。ただ小学校だけは、未だに必要なのです。

太田さんは、この雑巾を中国で生産することを考えました。赤色や黄色や青色や各色の組み合わせで3枚セットを激安で販売し、家庭のお母さんの絶賛を得ました。中国で生産する時に一番困ったのは「赤・青・黄」と各色まんべんなく包装するように指示しても、赤赤黄だったり赤青青だったり、いうとおりのものができません。中国人は、同じ雑巾でなぜ違う色に分けて入れないといけないのか、理解できないようなのです。最近はユニクロ方式で中国に生産拠点が移り、従業員教育もしっかりしてきたので、このような事はもうないとは思います。

太田さんは、このユニクロ方式の日本での先駆けといえます。太田さんの仕事は安売りショップです。この業界は激烈な競争を繰り返し、デフレになってからさらに安売り合戦は加熱しています。安売りの成否は仕入れにあります。これら仕入れはベテランのバイヤーと呼ばれる人が、持ち込まれる大量の製品を見極め値決めをしてゆく職人芸の世界なのです。

太田さんはココをなんとか誰でもできるようにシステム化できないか?と考えました。そして誕生したのが「自動値切り機」です。何もしなくてもこの機械が全自動で値段を値切ってゆくのです。システムは至って簡単です。よく街角にある電光掲示板の小型のものを想像してください。

これはシステム部のコンピュータにつながっています。そしてこの自動値切り機は商談室の壁に設置されています。その画面には今までの各商品の最低仕入れ価格が次々と表示されていきます。売り込みに来た人が、この最低仕入価格を見て思います。「これ以上の価格の提示では納入できないかも知れない。」これが無言のプレッシャーとなって、黙っていてもそれだけで提示価格がどんどん下がってゆくそうです。

内海新聞 27号

クレームの多い料理

宮沢賢治の童話で「注文の多い料理店」という話があります。山で猟師が道に迷い、はらぺこでやっとたどり着いたレストラン。これが奇妙で、ウェイターも客も誰もいない。しかし、いろいろ自分たちに向けて伝言が書いてある。そこには、「どなたもどうかお入りください、決してご遠慮はありません。」さらに「鉄砲と弾丸(たま)をこゝへ置いてください。」「ここで服を脱いで下さい。」「体中にバターを塗って下さい。」「どうかからだ中に、壷(つぼ)の中の塩をたくさんよくもみ込んでください。」

結局、これは山猫が猟師を食ってしまおうといろいろ細工したものだったという話です。なかなか面白い話です。ココからは私の昔話です・・・もう25年も前の話です。

中華料理のレストランのコックをしていた時は、よく失敗をしてお客様から叱られました。その度に、この宮沢賢治の「注文の多い料理店」を思い出しました。こっちから、いろいろ客に注文できればどんなに楽か・・・でもさしずめ、今の自分は「クレームの多い料理店」といったところかな?・・・と思ったりもしていました。お客様は神様です・・・と三波春夫さんが言われましたが、私はとてもそうは思えませんでした。当時は「お客様は怖い人」と思っていました。攻撃されっぱなしです。お客様にもいろいろいらっしゃるので、いつも緊張の連続でした。想像も出来ないトラブルがいろいろありました。

以前に書きましたが「テーブルは裏から拭け!」の教訓となった白いロングコートのお客様。これはその前にこの席に座った家族連れの子供たちがテーブルの裏に酢豚のタレを塗って帰ったことが原因で、次に来られた常連のお金持ちのお客様の白い毛皮の何百万円もするロングコートが、真茶色になった事件です。でもこれは、一方的にこちらが悪いので、納得できる話です。雨の日に違うお客様の傘を間違えて持って帰った事件もありますが、これも気が付かないで間違って持ち帰られたということです。でも、いろいろ納得いかない事件もあります。私の店の向かいのお店は、うどん・そばの「あかつき」というお店でした。

そのお店は奥にお座敷もあり、靴を脱いで上がるようになっています。ある女性のお客様が帰る際に、自分の靴が無いと騒ぎ出しました。自分の靴は高級なロングブーツだったということです。しかし、そこに残されたのは、薄汚い疲れたブーツでした。絶対自分のではないと言い張ります。仕方ないので、お店のゴム草履を履いて帰っていただいたのだそうですが、お客様が言われるのが本当だとしたら、絶対履き間違えることは無いと思います。足の大きさとか、履き心地ですぐ判りそうなものです。また色も材質も違いますので、すぐに判ると思います。お店としてはなんともならないので、諦めてもらったそうでした。また、斜め前のお店で、「サンマミー」というカレー専門店がありました。ここの事件は奇怪です。お客様が注文したカレーを食べられていて、突然「あっ、針金飲んだ!」と騒ぎ出しました。カレーの中に針金が入っていたというのです。

でもカレーというのは、いろいろ入っているので丸呑みするような食べ方はできませんから、口の中で噛んでいれば、針金など、すぐに判りそうなものです。でも、本当に針金を飲んだと言い張ります。仕方なく、店長はそのお客様を近くの救急病院に連れていってレントゲンを撮ってもらいました。そうしたら、きっちり喉のところに針金が引っかかっているというのです。

店長は真っ青になりました。
「本当だった!どうしよう!」その時、担当のお医者様が、別室に店長を呼び出しました。「あの針金は変です。なぜなら、喉に突き刺さらないように両端を丸めてあります。多分自分で作った針金を飲んでからお店に行ったのだと思います。恐喝事件なのですぐに警察に連絡されたほうが良いですよ。」結局、この話はお医者様の言われたとおりで、警察のお世話になったそうです。

私の店でもありました。ある日曜日の夜、店はごった返していました。レジのところにお勘定を待つお客様が何人か並びました。ちょうどその頃、帳場を母がしていましたが、レジを打ち込むのが間に合わず、レジの前のテーブルの上に、お客様がプラスチックの勘定書きと代金を置いて帰られました。次のご婦人のお客様が、自分のプラスチックのお勘定書きをその前の人の代金の上に重ねて置いたのです。代金もお釣り銭の無いように添えてあったのですが、すぐ下にあった、その前のお客様の代金の一万円札をうまく抜き取りました。そして、さっさと出て行きました。

母は、それを見逃しませんでした。レジ打ちを止めて、通路に飛び出し、ダッシュしてそのご婦人を追いかけました。「お客様、その一万円札、お間違えではございませんか?」母のあまりの機敏な動きにすんなり、お客様も降参されました。

お父さんはココで待ってなさいっ!

先日、久しぶりにニューヨークに行って来ました。
ニューヨークはどことなく大阪に似ていて私にはぴったりです。さしずめ五番街が御堂筋です。北から南への一方通行で同じです。東隣りは、四番街とは言わずマディソン街といいますが、これが堺筋。南から北への一方通行。反対の六番街これも六番街とは言わすアメリカズと言いますが、これは四ツ橋筋ですね。ここも南から北への一方通行。道路は全部一方通行です。このように大阪の地形にそっくりで、この三本の道を覚えておくと、バスやタクシーに乗るときに、どの通りにでれば良いか全部の通りの向きが想像できます。ローカルな話ですみません。

またニューヨークの人たちは信号を守りません。ここも大阪人にそっくりです。JR大阪駅の前の大きな交差点で、みんな信号を守らないので、あと何秒で信号が赤から青に変わるかを表示するようにしました。これで、安心して信号待ちをするだろう・・・と。この信号は今でもJR大阪駅と阪急のビルの間にあります。しかし、結果は正反対でした。信号が赤の時、大阪の人たちはもうイライラして待っています。沸点に達しているといってもいいでしょう。目の前で信号が青に変わるまであと何秒とでると、信号が赤でも数秒前からフライングして歩き出します。以前より危険になったという噂も・・・。もう各自の責任に任せる他はありません。

ニューヨークにこんな大阪のような信号はありませんが、赤でも歩いてます。車が走っていてもです。吉本のやすしきよしの漫才ネタで、「信号が青の時は進め、黄色の時は注意して進め、赤の時は見つからないように進め」というのがありますが、ニューヨークでは警察がいようがいまいが、歩いてます。

日本では東京の方は信号を守ったり、電車に乗るときも並んでいますので凄いなぁと思います。関西人は電車は並びません。降りる人より早く乗ろうとしますのでドア付近は戦場です。とにかくニューヨークは大阪の匂いがします。ところで、先日、ニューヨークに行ったとき、H&Mというカジュアルの安売りのお店に行きました。男性用もありますが、ほとんどが女性用カジュアルです。スウェーデンからきたショップで日本にはまだありません。とにかく安いのです。そして、なぜか、バナナリパブリックの近所にお店があります。店は大流行で、レジと試着室はごった返しています。

多分2万円もあれば上から下まで全部揃うだろうな・・・と思いました。そのお店でさらに面白いなと思ったのが、入り口の左右に腰掛ける大きな椅子が二個置いてあることでした。ちょうど、左の下の写真の丸印のところです。30分くらい2階から見ていたのですが、ここに座っているのは、たいてい一緒に買い物に付いて来た親父です。

奥さんや娘さんはさっさと買い物に行ってなかなか帰って来ませんが、親父はここで、じっと座ってその帰りを待っています。多分親父は、一緒に買い物に付いて行っても、役には立たず、足手まといになるだけです。そんな奥さん方の気持ちを察してか、最初から入り口のところに親父と年寄り用の大きな椅子を用意しているのかも知れません。これで奥さんは安心して買い物できますので、お店としても売上げアップにつながるのかもしれません。あの椅子2個置くくらい、お店の経費としては安いものです。

アメリカ人の大好物「うなぎ」

先月ニューヨークの51丁目にある寿司清というお店に立ち寄った時の話です。
「うちの店はお昼は来ないほうがいいですよ。」と板前さん。なぜかと尋ねたら、ほとんど会社接待のお客様ばかりで大変混雑するのだそうです。意外と夜の方が空いています。寿司清のカウンターには日本とまったく変わらない同じネタが並んでいます。「これは日本からの輸入ですか?」と聞くと、数の子とか以外は全部アメリカで調達できるのだそうです。下準備で、日本と同じネタに仕上げることが出来るということ。

ところで、アメリカでの寿司人気ナンバー3を挙げて下さいと質問すると、第一位がダントツで「うなぎ」だそうです。第二位は、「ハマチ」です。そして第三位が「トロ」だそうです。とにかくオイリーなものが好きなのです。いつか、「うなぎ」と「アナゴ」を同じように寿司にして、どちらが好まれるかをテストしたことがあるそうですが、100%「うなぎ」の追加がきたそうです。アメリカで、「うなぎビジネス」は面白いかも知れません。特にあの甘たるいタレが決め手だそうです。ちなみに、そこには生きたうなぎは置いていません。全部さばいて、蒸した切り身ばかりです。そしてメニューも「eel」とは書かずに「unagi」とありました。