内海新聞 17号

私が料理店を辞めた理由(続)

前回は大変失礼いたしました。スペースの関係で2回にわたっての文章になってしまいました。・・・・・
私は昭和60年8月31日の日曜日で中華料理店を閉めて、翌日の9月1日の月曜日から、人材会社に勤める事になりました。なぜ、お店を辞める事にしたのか?いろいろ理由はありますが、もっとダイナミックに自分のアイデアで勝負してみたかったのかもしれません。第11号でも少し書きましたが、当時、私は宝塚市にある駅前のショッピングセンターの1階で飲食店をしていました。当時ではよく流行っている方だったと思います。しかし、隣の駅にもおなじようなショッピングセンターができ、反対側の駅にも同様に大型ショッピングセンターができる計画でした。しかもバスターミナルが隣の駅なのでさらに、客の流れは変わってきます。ビルの管理会社が販売促進をしていましたが、出てくるアイデアはいつもバーゲンばかり。

年2回が3回になり、4回になり・・・安売りをすると、もうお客はその時にしか財布を開けません。バーゲンのときには、各店舗は協力金として毎回何万円も拠出しなければなりません。私は管理組合にひとつの企画書を送りました。それは、安売りではなく、どうしてもこのビルに足を運ばなければならないような仕掛けづくりをすることでした。提出した企画は「コンシェルジュサービス」でした。当時私のお店の入っていたビルは、阪急電車の駅前でとても便利な場所でした。

しかし、市役所というのが、隣の駅からバスにのって15分位先にあって非常に不便です。バスも時間どうりに来ませんし、働いている人が市役所を利用するのは大変でした。私のお店でお客様がこのような話をしているのが耳に入ってきました。「住民票や印鑑証明を取りに行くためにバスに乗っていくのは大変やね。ここのビルの受付カウンターで手続きできれば便利やのに、なんでしないのかな?だって、ここは9時すぎまで開いてるわけでしょう?」確かにそうです。この辺りは新興住宅地と昔のお屋敷街があって、片方のマンションは共働きが多く、もう一方の住宅街はお年寄りが多くなかなか外出しません。

いずれも、バスに乗って遠くまで出かけるのはおっくうです。時間的に合わなくてサービスを受けられないことが結構あるようです。確かに役所関係の手続きは大変です。印鑑証明、住民票、転出転入届、戸籍抄本などなど。もちろんクリーニングの取次ぎから各種手続き。キャッシュディスペンサーからATM。このようなサービスの窓口を全部1ヶ所のまとめた「コンシェルジュサービス」があれば、皆必要に迫られてビルに訪れるにちがいない。ホテルのフロントのようなカウンターサービスです。そんなに大きな投資もいらないし、何かの用事でこのビルを訪れていただければ、きっと買い物をする人もいるでしょうし、食事をする人もいるでしょう。生活の中の必需品です。・・・というような内容の企画書だったと思います。顧客が求めるものは、数字の大小ではなく、一個一個の「バリュー(価値)」だと思っています。

美人コールセンター

以前、テレマーケティングのコールセンターをしていた頃の話です。業務は、アウトバウンドという電話をかける仕事と、インバウンドという電話を受ける仕事がありました。いずれも、女性オペレーターが対応するわけですが、その人員確保がいつもの悩みの種でした。なかなか募集をしても集まりません。当時テレマーケティングといっても馴染みがなく、皆、電話セールスだと思いこんで敬遠するのです。運良く新聞広告で確保できても、電話の対応には不向きであったり、使える方は少ないのです。

これは、どこのテレマ-ケティング会社でも共通の悩みです。なんとかここを解決しようと、無い智恵を絞りました。そして考えついたのが、女優や声優、あるいはアナウンサーや歌手の方々を雇ってオペレーターになってもらう事でした。プロになりたて、あるいはプロを目指しているタマゴたちです。彼女達は、発声の基礎トレーニングができていています。電話の仕事にはピッタリです。電話口の声が心地良いのです。

そして、仕事は穴を明けない。彼女達の仕事はわがままが言えず、来た仕事を断ると、次から仕事がもらえないのだそうです。したがって、通常の定期のお仕事に就くことができず、時間が自由なアルバイトを選びます。しかも時間帯に条件がなく、深夜でも早朝でも文句もいわす、快く受けてくれた事は大変助かりました。私はそのような方々を数多く採用してゆきました。誰か見つかると紹介紹介で芋づるのように応募してきます。特に美人の方々が多く、社内がとても明るくなり、男性従業員が活気づきました。さらに来客もなぜか増えていきました。ただ、舞台やコンサートがあるたびに、チケットを大量に購入してあげないといけない事や、CDが発売されたりすると協力して何枚も購入してあげたりといった援助は必要です。(笑)

安心して生まれ、安心して死ねる国家へ

最近、内海新聞の原稿は差し替えばかりです。11月号まで完成しているのに今回も差し替えです。
私は、今、名古屋からの出張の帰りの新幹線の中。2001年8月28日火曜日17時40分。目の前にある日経新聞夕刊の一面には、「失業率最悪、初の5%」統計では20人に一人が失業と書かれています。大半は世帯主の方々なのでしょう。なぜか、私は今、涙が止まりません。これから大企業の大リストラが始まるというのに、すでにもうこの数字に達しています。

仕事柄、飯田橋の職業安定所や人材銀行に足を運びますが、元気のない中高年の方々で溢れています。これが、いつか日本が通らなければならない道なのだとしても、なんとかならないのでしょうか?私は、たまたま自分の事業で食べていけてはいますが、自分に何かもっとできる事はないのか?自問自答の連続です。私は子供のころ、「人が元気になる仕事がしたい」というのが将来の夢でした。今もそうです。私が以前、自分の会社が潰れそうになった時、ある人にこんなアドバイスをいただきました。

人の運というものは、皆に公平にあるものなんだよ。人間の寿命が80歳だとしたら、一日長生きすれば一日寿命が減るんだよ。ひょっとして、人間の運の総量は一定なのかもしれない。量には違いはあるかもしれないけれど・・・。だから、差し引きゼロなんだ。だから右に振れることがあれば、必ずまた左に振れる。ついていないことがあれば、ついてることもまたやってくる。だから元気出してやっていこう・・・・と。「自分の目の前の起こるすべての出来事、出会いには意味がある。」いつの頃からか、私は物事をこう考えるようになっていきました。そんな自分の一つ一つの宿命を大事に生きなければいけない・・と。仏教でいう感応道交(かんのうどうきょう)です。

私の20代は中華のコックと八百屋の問屋の卸の仕事の二毛作でした。その卸売り市場でアルバイトで働いている時、失業された方や夜逃げしてきた方や沢山の厳しい境遇の方々がいました。昭和55年ころです。そこは労働者に寛大でした。朝早くから重労働のこの仕事を続けられる人は少なく、いつも人手不足だったからなのかもしれません。私はそこで、10年近く働きました。そして働いて得たものは、そんな境遇の方々との友情でした。共通するのは皆本当に一生懸命働いていた事です。火鉢で餅を焼いて月何十万円も売り上げていたおばあちゃん。ごみ箱から魚を拾ってきてかまぼこをつくっていたおじちゃん。段ボール箱を自分の身長の3倍くらい積んで台車で回収しているおじいちゃん。みんな私の商売の師匠でした。

中高年の先輩の方々が一生懸命働いて、今のこの日本がある・・・と思っています。だから、何か皆のためにしなければいけない。いまこそ皆が一丸になれるチャンスなのかもしれません。「安心して生まれ、安心して死ねる国家」を目指して・・・生意気な事を書きました。お許しください。もう東京に到着です。

かまやつひろし さん

例によって半蔵門にある「三城(さんじろ)」というおそば屋さんで遅めのランチをとっていました。2時をまわっていたので客は私一人でした。おかみが私に話し掛けてきました。「今、井上さんという古くからのお客さんから電話があったの。井上さんというのは、大きな会社の重役をされていたのだけれど、引退されてご実家のある北陸に引き込まれたの。でもやっぱり人が恋しくて毎月2回くらいは上京されて人に会われているらしいの。そのたびこのお店に寄っていかれるのよ。今も電話があって、行っていいかい?だって」

急に田舎にいっても知り合いもいないだろうから、東京に出てきたい気持ちもわかるなぁ。まもなく、その井上さんという老人がやってきました。おかみと何か楽しそうに話しをしています。しばらくして、もう一人お客さんが入ってきました。店の中は暗く、その日はとてもよい天気だったので、そのお客さんの後ろからの日差しが照明をあてたようにまぶしく、人影だけが見えます。長髪なので何か獅子舞のように見えました。店の中に入って来られてその人が歌手の「かまやつひろし」さんであることが判りました。

かまやつひろしさんは、井上さんの座っている大きなテーブルの斜め前に座りました。二人は、静かに言葉もなくお蕎麦を食べています。お店の中はBGMもなく、し~んと静まり返って、まるで時間が止まっているようです。私はお店の隅からこのお二人を見ていて面白いと思いました。片方の井上さんは人恋しくてわざわざ毎月北陸から東京に出てこられ、人に会うことを楽しみにされています。一方、かまやつさんは、多分、人の関わりを逃れて、マネージャーも付けずに、一人静かにここでお蕎麦を食べておられる。人と人の関わり方というのは、人それぞれ色々あって、わがままなものなんだなぁと思ったりしながらのランチでした。