内海新聞 9号

編集長より:しばらく内海新聞をお休みしておりました。あちこちから新聞が届かないのは送付リストからはずされてしまったのでは?・・・とご連絡をいただいたりで大変ご心配をおかけいたしました。ようやく準備ができましたのでまたお届けできるようになりました。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

心のふるさと(2)

私は大学を中退してしまいましたが、大学1、2年の頃は下宿生活をしていました。あれは2年生の頃でした、私が世話になっていた下宿は別棟で8人が生活するアパートになっているのですが夕食は母屋でみんな一緒に食事をするという寮のようなつくりになっていました。大家さんご家族には高齢で少々ボケが始まっているおじいちゃんがいました。皆、そのおじいちゃんの話相手になるのがいやで夕食は自炊にして自分の部屋でとる者が増えてゆきました。そのうち8名のうち5名は自分の部屋で自炊するようになってしまって、母屋での食事は私を含めて3名だけになってしまいました。私が母屋で食事をしなければならなかったのは、自分の部屋にテレビがなかったからです。母屋での夕食時がテレビを見られる楽しみの時間だった訳です。その事件はある秋の夕食後に起こりました。

例によってわれわれがテレビをみているとそのおじいちゃんがやってきました。しばらくは一緒にテレビをみていたのですが、そのうち独り言を言い出すようになりました。なるべく気にしないでおこうと無視していたのですが、大きな声なのでどうしても耳に入ってきて集中できません。「君達はいいなぁ。私はさっき食べたおかずも覚えていません。今日は何曜日でしたか?」「また始まったな・・・」皆が思いました。

「私は何も覚えていません。君達はいいなぁ・・・私はボケていませんよ。私が18歳の頃の事は覚えています。20歳の頃のことも覚えています。でも30歳の頃の事は覚えていません。40歳の事も覚えていません。50歳も60歳も覚えていません。だから君達はいいなぁ。」私はテレビをやめておじいちゃんに質問しました。

「18歳の今ごろは何してた?」「それはね、今のおばあちゃんと村の祭りで出会った年です。雨の多い年だったなぁ。」「20歳のころは?」「その頃ははっきり覚えてる。それはね・・・」どんどん話します。「30歳は?」「30歳も50歳もわからない。あまり覚えていない・・・」これはどういう事だろう。なぜ君達はいいなぁ・・っていうんだろう?
「なぜ僕達はいいの?」
「それはね、一番楽しい時だからだよ。なんでもできる。今をほんとに大事にすることだ。」
このおじいちゃん、本当にボケているのだろうか?

その後、私はこのおじいちゃんのこの事がヒントで「心のふるさと論」という考え方ができました。人生の中では生まれた場所とは違う、心が出来上がってゆくもうひとつのふるさとがあって、これを「心のふるさと」と名づけました。その人にとっての考え方の基礎でありルールが出来上がる時です。それは感受性の強い18歳~20歳くらいに寝食を忘れて没頭したものがある場合に完成すると思っています。その後の人生で苦しい時に必ずこの心のふるさとに立ち戻ることができ、再び歩み出す勇気をもらえる所です。「あの時も頑張れたんだ。だからきっと・・・・!」

テーブルは裏から拭け

私の20歳代は、中華料理店のコックの10年間でした。その時代は今考えてみれば最高のマーケティングの実体験ができた時期でもありました。たくさんのクレームを頂きこれを解決するために数々の工夫が生まれてゆきました。

こんなことがありました。私の店の常連さんでファッション関係の会社の経営者の方がいらっしゃいました。いつも素敵なお召し物で来店されます。それは寒い冬の日曜日でした。結構お店は混雑していました。4人家族で来られたお客様が丁度帰られたあとにそのおしゃれな経営者のご家族が来られました。今日は真っ白なミンクの毛皮のロングコートを着てこられたのです。丁寧にたたまれて空いている椅子の上にコートを置かれたのです。その時「あああっ」という声でそのコートを見たら、茶色いものが一杯ついていたのです。前にこの席にいた4 人家族の小学生の息子さんはいたずらでいつも何かして帰ります。

今回は酢豚のタレをテーブルの裏側に一杯塗って帰ったようですが証拠がありません。コートのお客様は大変ご立腹で、こんな何百万円もするコートを弁償なんてことになれば大変なことになる・・覚悟を決めましたが、何とか許していただきニシジマという毛皮専門の高級クリーニング店での洗濯代金の数万円で許してもらえました。今回のことは、このいたずらしたご家族の息子さんよりも、しっかりテーブルをチェックしなかった我々に問題があります。そこでできた一つの掃除のルールが「テーブルは裏から拭け」というものでした。目に見えないところこそ重要であり念入りにしなければならないという教訓を得た事件でした。

内海’s Network

昭和60年私はアルバイトではありましたが、31歳で生まれて初めての会社勤めを始めました。

ラーメン屋のコックからの転身です。日本でも最大手の人材派遣の会社でした。新卒の新入社員と同じスタートでした。先輩社員が言いました。「普通、逆だろう?脱サラはあっても、その反対とは珍しい。」まず何も判らない。名刺だけで、パンフレットもなければ商品もない。

しかし、もともとそういう世界に10年間いたので別に苦痛ではなかったです。逆に何でもできるという期待感のほうが強かったのです。やがて方針が決まりました。看護婦という人材を通じたニュービジネスを考えろ・・・というものでした。今、話題の在宅老人介護に関わる会社として設立されました。これを今から10年以上も前に考えたのですから、この会社の先見性は相当なものだと思います。私は大阪の御堂筋を北から南まで1社1社飛び込みで営業しました。営業方法は2つだけであることを指導されました。「落下傘攻撃」と「じゅうたん爆撃」。まずビルの最上階までエレベーターで昇ります。そして、上から下まですべてのオフィスを営業して降りてくるのが落下傘攻撃。次に営業エリアの地図をひろげ、訪問したビルを赤く塗りつぶし地図全部を真っ赤にしてゆく・・・これがじゅうたん爆撃。要は一つも残さず営業してまわる方法です。御堂筋の北から南まで、その地図は真っ赤になり、真っ青になり真っ黒になり、何も見えなくなるほどでした。

それにしても何の反応もなし・・・。それはそうだと思います。「看護婦のニーズはありますか?」といって営業はしていますが、それどうやって商売するかも決まっていなかったのですから・・・3ヶ月程して私は途方に暮れました。「やっぱりラーメン屋のほうが良かったのかなぁ」私にはあまりにも難しすぎる・・・・。大阪の太融寺という歓楽街の公園で朝日新聞の求人欄をぼんやり見ながら、いろいろな事を考えていました。「看護婦急募!」私の目は見逃しませんでした。

「上原学術研究所」「・・・・??」「なんだこれは?病院ではなさそうだし・・・だいたい病院が募集している看護婦は全部夜間勤務。在宅の看護婦はその夜勤ができないから余っているわけで、人材と病院のニーズには差がありすぎる」この財団法人はいったい何なんだ?しかもその住所は「大阪市北区太融寺」。「おいおい、ここじゃないか!」まるで私を呼んでいるようだ。そして地図で調べると目の前にあるこの10階建のビルの8階。何か運命的なものを感じてしまいました。3人しか乗れないようなエレベーターに乗って8階に上がりました。人影がまったくない。何か不気味な暗いビルでした。看板もありません。ドアをノックしました。

「どうぞー。」女性の声がしました。ちょっと安心。「すみません。新聞を見たのですが・・・看護婦を募集されているらしいのですが、私が何かお手伝いできるかもしれません。」私は恐怖感もあってか一気にしゃべりまくりました。ここは企業の健康診断を請け負う会社でした。レントゲン車を会社の横につけて、年に1回実施される結核予防の健康診断です。脈をとり、採血してレントゲンをとって、検尿です。看護婦にとっては退屈な仕事です。募集しても定年退職した高齢の看護婦ばかり、しかもすぐに辞めていく。一方検診の予算は年々下げられて利益がでない状態。そこにこの人材の募集費や人件費が上がってゆきます。私はその現場に遭遇したのです。法律があるので、人材の派遣はできません。「この現場の事務的な業務を全部一括で任せてください。」とっさに応えました。事務管理費が半分になります。この縁で新しいマーケットをきりひらくことができたのです。いったん動き始めたら、後は流れに任せるだけです。私はビジネスニーズを見つけました。そして、私はこの時、ラーメン屋時代の「お詫び券」を思い出しました。「ここも同じだ。困ったところにビジネスが存在する。

内海新聞とウサギの耳・・・

内海新聞は不定期に発行されるわがままな新聞です。最初は社員への内海からのメッセージとして20通からスタートしましたが、社員たちが、お客様先へお持ちしたのがきっかけで部数が増え、現在では発行数1000部を超えるほどになりました。この新聞の内容は株式会社ジンテックを創業する以前から現在に至る間に出会ったさまざまな方々との交流を書かせていただきました。それぞれには含蓄がありすべて現在の肥やしになっているような気がしています。

それから、私のニックネームはなぜ「ウサギの耳」というのか?それはナスダックジャパンに上場した「まぐクリック」の西山裕之社長がまだ学生だった頃私につけたニックネームです。「内海さんのところにはいつも新しい情報が集まってくる。まるでいつもピンと立っているウサギの耳をもっているようだ。」といったのが最初です。それから私はウサギの耳と呼ばれるようになりました。今から15年前の話です。
株式会社ジンテック 代表取締役会長 内海 勝統