内海新聞 5号

宝塚

私は宝塚に生まれ育ちました。今では、ベッドタウンとして発展していますが、昔はのどかな田舎町でした。温泉・芸者・歌劇・川と山並み・美味しい水と空気。そんなイメージです。

兵庫県の東寄りにある街です。昭和29年、私の生まれた年に良元村から宝塚市に昇格になりました。街の真ん中に武庫川(むこがわ)が流れ、その周辺には温泉旅館が建ち並びます。宝塚歌劇の隣にはファミリーランドという遊園地があります。宝塚はオリジナリティーあふれるところです。宝塚歌劇というのは世界で初めての女性だけのミュージカルです。

手塚治虫さんは日本人に漫画の晴らしさを教えてくれました。小林一三さんは阪急電車をつくり、そこに日本初の様々なアイデアを盛り込みました。子供のころは何も考えずに、普通にその環境の中に育ってきたのですが、やはり、何か目に見えない影響があったのかもしれません。歌劇もあまりにも身近で普通の事として受けとめていました。歌劇の女優さんたちを、地元では「歌劇の生徒さん」と呼びます。生徒さんたちの上下関係ははっきりしていて厳格です。はるか何十メートル先に先輩がいたら、必ずそこで「気をつけ」の姿勢で直立不動です。そして深々とお辞儀をしてあいさつをします。これは今でもそうです。先輩と識別できなくても、なんとなくそんな感じ・・・でも同じです。もし、挨拶を忘れたり、無視したりすると、あとで必ず叱られるので、誰でも似ていたら挨拶するのです。

私の妹は長身でしたので派手な格好をしていたら、あちこちで、生徒さんの挨拶の嵐でした。また宝塚のファンは、スターと同じような格好や髪型をして、生徒もどきのスタイルで歩いていますので、新人の生徒さんは、まぎらわしくて大変だと思います。阪急今津線の宝塚南口駅に私のお店「芬苑(ふんえん)」はありました。ある雨の日、駅前の郵便局にはがきを買いにいった時です。雨が突然激しくなってきて立ち往生している歌劇の生徒さんがいました。
「すみれ寮までですか?」
「じゃぁ、すぐそこですからこの傘に入ってください。送ってあげます。」
「すみません。ありがとうございます。」
私は300mくらい先にあるすみれ寮まで送ってあげました。
とても綺麗な生徒さんでした。
「お名前はなんといわれるのですか?」
「本名ですか?」
「いえ、本名ではなく舞台の名前です。」
「はい、涼風真世といいます。」
「きれいな名前ですね。きっとトップスターになりますよ。」
・・・何気ない会話でした。

それから数年後、涼風真世さんは、ベルサイユのバラで主役を演じるトップスターになっていきました。今でも時々サントリーウィスキーのコマーシャルでお見受けするたびのその時の事を思いだします。また安奈淳さんは黄色のミニクーパーに乗っていました。それを見て私もミニクーパーが欲しくなりました。そして、お金もないのに無理して購入したことがあります。オレンジ色のミニクーパーでしたが、毎月1週間は故障で修理工場に入院しているポンコツでしたが一番好きなクルマでもあります。

コーポレートアイデンティティ

私がまだラーメン屋のコックをしていたころです。昭和56年ころでした。店を改装する事になりました。私は、店が一目でわかる何かマークが必要と考えました。そのマークをあしらうことによって、だれでもお店を認識できる・・・いわゆるCI(コーポレートアイデンティティー)です。ある日、店がちょっと暇になった時間に、通信販売のフジサンケイディノスのカタログを見ていました。その中に輝く1枚のイラストがありました。少年少女の絵で、色づかいが素晴らしいのです。そしてにこにこして、とにかく暖かいのです。「これだ!」一目で気にいりました。ディノス社に電話して、何ページのイラストを書いた先生を紹介してほしいと電話で頼みました。幸いに快く教えていただけたのです。

その方は平松尚樹先生といい大変有名なイラストレータの先生だったのす。「はじめまして。私は宝塚というところでラーメン屋のコックをしています。先生のイラストをある雑誌で見つけてから大ファンになりました。今度店を改装することになり、是非先生に書いていただいたイラストを店のデザインに使いたいのです。」「あっそう。いいよ。書いてあげる。何かお店のイメージの解るものを送ってくれる?」「・・・・」あまりのあっけなさにびっくりしました。私は悩みました。店をイメージできるものなんて何もありません。こまったなぁー・・・考えた挙げ句、店で良く売れていた豚饅を箱につめて送りました。私の豚饅は包み方が変わっています。普通のように丸くないのです。皮を伸ばしてギョウザのように包んでいきます。だから私の豚饅は握り拳くらいの大きなギョウザです。平松先生は、そのギョウザのような豚饅をもって空を飛んでいる男の子と女の子のイラストを1週間後に送ってこられました。そのイラストは、店の箸袋や包み紙そしてメニューなどあちこちにあしらわれ、素晴らしいお店になりました。 この時の1回の電話だけの縁で、その後7年間お会いすることもありませんでした。私は昭和60年に店を辞め、昭和63年に上京しました。そうだ、不義理を重ねている平松先生にお詫びをしよう。

私はたった一回の電話だけでお顔も知らないのです。私の勝手な都合だけで無理をいっていました。しかもお金はいらないといわれて、お支払いもしていません。勇気を出して事務所に電話しました。「もしもし、以前、私の勝手でイラストをお願いした・・・・」と言いかけたとたん「あっ、内海君?そうでしょう内海君でしょう?会おう会おう。ビールでも飲もよ。」驚きました。私と直に判ったそうです。先生ご自身でも不思議だと言われました。「なぜだか、声を聞いてすぐ判ったんだよ。」7年前に一度だけ電話しただけなのに・・・・これを縁に平松先生は私の師匠のお一人として現在に至るまでおつきあいいただいています。今の私の名刺の左肩にあるイラストも平松先生の作品です。年賀状やご挨拶カードもすべて平松さんの作品です。いまでは、ふたりで銀座のビアホールをはしごしたり、ゴルフをしたりと遊んでいただいています。

情報料課金サービス「ダイヤルQ2」

ここは厳粛な抽選会場。私は仕事があって会場には行きませんでした。アルバイトの林君を様子を調べさせるために会場に派遣しました。当時私の会社はこの林君という学生のアルバイトと私のふたりきりでした。私は、この林君にその後、何度も助けられることになるのですが、この話はまた後日。その日、NTTが、電話料金とは別にその情報料もいっしょに回収してあげるという「情報量課金サービス」今のダイヤルQ2の使用権を与えるための抽選会が行われたのです。

林君から電話がかかってきました。
「内海さん、あのぉもう帰っていいですか?なんか会場が騒然として、とってもヤバイ状況です。今、抽選が行われていますが、1番目の抽選で選ばれたのがジンテックなんです。」
「やったぁ!それで?」
「それで、2番目もジンテックなんです。いま50番目くらいなんですが、ジンテックなんです。ほとんどジンテックです!!!」

昭和58年私は兵庫県宝塚市のラーメン屋のコックでした。(実は私は、昭和51年から昭和60年の10年間、ラーメン屋のコックをしていたのです。)たまたま休みの日に尼崎の塚口にある西武百貨店に遊びに行きました。そこは「つかしん」という複合ショッピングセンターでした。

5階の家具売り場を見ていました。そうしたら後ろからある中年のおばさんが声をかけたのです。「これ、どう思います?私が設計したんですよ。」この方が後に私のひとつの運命の鍵をにぎろうとはその時には夢にも思いませんでした。この女性は福岡出身の主婦でした、当時50才くらいだったと思います。
「私は家具やこのようなキッチンを見るのが好きで、良く来るんですよ。私はラーメン屋のコックをしています。内海といいます。」
「そうなの?立派なお仕事です。どちらでされてるの?」
「はい、兵庫県の宝塚市です。」
「えっ?私も宝塚に事務所があるのよ。宝塚のどのあたり?」
実は、私の家と目と鼻の先にその女性の事務所はありました。この会社をアトリエ・ミセスといいました。

そしてその方の名前を八田玲子さんといいます。福岡にお家があり主婦なのに、単身赴任で宝塚に来られていました。設計士の彼女は長谷川工務店の顧問をしていました。 それから私は、度々彼女のお家を訪問することになるのです。実は彼女は大変な発明家だったのです。わたしは、この八田さんに発明や特許の実戦的なことを学びました。祖父からの基礎があったので、理解力は早かったと思います。

ある日「内海さん、いい方を紹介するわ。大伴さんといって、ボイスメールの会社にお勤めの方です。」ボ・イ・ス・メ・-・ル?????なんだ?それは?初めて聞くものでした。「アメリカで流行っているもので、留守番電話の大きいものと思えばいいわ。」ますますわからない???しかし、この大伴君が私の次の運命の鍵を握ることになりました。私は、大伴君からボイスメールの仕掛けや市場性を細かくレクチャーを受けました。ただ、実際にどうすれば有効に使えるのかはよく判りませんでした。

私は、その翌年、パソナグループの関連会社で勤める事になり、10年間勤めたラーメン店を辞めることになったのです。大阪本社に3年いた後、私は東京に異動となりました。東京に着任して、すぐに大阪の例の大伴君から電話がありました。「優秀な人を紹介するよ。山田さんといって、東京理科大学を出たあと、東京外国語大学に再入学して語学を勉強した通信のわかる人物です。きっと内海さんと気があうと思うよ。」その言葉通り、私は山田さんとは気があいました。いろんなアイデアの話をしました。「内海さんね。いいこと教えてあげる。実は今度NTTが情報料課金サービスというものを始めるんだ。電話代金とは別に、電話で流す情報の代金も一緒に回収してくれるサービスなんだ。アメリカではすでに900番サービスといって定着しているものなんだよ。」「へ~、よく判らないけれど、面白そ~。」「それがね、東京03区域だけで、テストがはじまるんだ。しかもその権利は公正に抽選で選ばれるので、絶対に申し込みだけはしておいたほうがいいよ。何に使うかはあとで考えればいいのさ。」 私は、九段のNTTに尋ねにいいきました。「今度、情報料課金というのが始まるらしいのですが・・・」でも九段局の誰も知らない。すると奥から別の人が「これじゃないか?」といって、封も開けていない茶色の大きい封筒を持ってきたのです。「これこれ、これです。この申し込み用紙を1枚ください。」「いいよいいよ、こんなもの、全部もっていきな。」といって封筒ごともらって帰ってきたのです。中には何十枚か入っている。例の林君とどんなサービスがいいか考えましたが、たかが知れています。 アルバイト情報。積雪情報、今日の献立情報、・・もう終わりです。「でも待てよ、通信法というのがあってNTTは電話の内容まで干渉はできないはずだ。」私は勝手にそう思いました。内容は適当に書いていいから、とにかく都内03区域の電話局にいってかたっぱしから申し込み用紙を集めて独占しまおう。そうしたら、抽選があってもへっちゃらさ・・・申し込み用紙で机の上がいっぱいになりました。 そして、この抽選会でした。東京のほとんどのダイヤルQ2の利権を一夜にして手に入れたのです。その後、わたしは、この権利をある人物にすべて譲渡しました。興味はあったのですが、何故か乗り気がしなかったのです。しかし、この時の電話へのかかわりが、後の私の人生を大きく変えていくことになります。

不在の家には電話しない魔法のシステム

私は、その日も新卒学生の就職テレマーケティングを考えていました。学生宅に電話して会社説明会の参加予約をとってゆくのが私の仕事です。ところが困ったことがありました。それは、学生というのは留守が多いのです。でも留守かどうかは、電話してみないと判りません。3件電話しても2件は留守なのです。・・・という事は、電話をかけるオペレーターの2/3は効率的な仕事はしていない。ということになります。なんとか、この無駄を省きたい。

私はこの時ふと思いつきました。学生の名簿に従って自動的に電話をかけるコンピューターというのはできるはずだ。この時、3本の電話回線を一台のコンピューターにつないで、3人の学生に対して同時に電話をかけたらどうだろううか?今までの経験からいけば、この3人のうち1人は電話はつながるはず。つながった学生の情報がコンピューターの画面の出てくるようにすればいいんじゃないのか?あとの2本の電話回線は呼び続けるが10回ベルを鳴らして、でなければ留守と判断して切断すればいい。

もしも、その時さらに誰かが電話に出たとしたら、もう1台のパソコンに転送されてそちらで受ければいい。こういう具合に複数台のパソコンにグルグル回るシステムはつくれるのではないだろうか?このアイデアはどんどん膨らんでいき、プロジェクトチームをつくり自社開発する事になりました。今から9年前、1990年のことです。そうして端末を10台つなぎ、2つのサーバーをもつ電話ロボットがほぼ完成しました。まったくの我流で作りあげたものでしたが、なかなかのものでした。後に知るのですが、この装置をアメリカでは「プレディクティブダイヤリング装置」といってアメリカで最先端のテレマーケティングのコンピュータシステムだったのです。これをきっかけとして、更に電話コンピューターの世界にのめり込んでゆく事になり、後の看板商品「TACS」として花開くことになります。