内海新聞 4号

編集長より:「なぜこの新聞が送られてくるのだろう?!」と不思議に思われた方も多いと思います。お仕事の関係で以前名刺交換させていただいた方、まだ面識はないけれど弊社の誰かと名刺交換をさせていただいた方を中心に一方的に送らせて頂いております。もしもご迷惑な場合はどうそ送付停止とご連絡いただけますでしょうか?宜しくお願い致します。

蝉大発生

もう春の声が聞こえてきました。時間の経つのは本当に早いものです。大好きな昆虫たちがもそもそ出てくるころです。昨年(1998年)は昆虫界では大変な年だったのです。

舞台はアメリカです。蝉が異状繁殖する年でした。蝉の仲間に「17年蝉」というのがいます。17年間土の中で生息します。そして地上に出てきて繁殖活動をして1週間で死んでゆきます。この17年蝉が地上に出てくる年が1998年でした。 事件はこのことではありません。17年蝉の仲間に「13年蝉」というのがいるそうです。この13年蝉が地上にでてくる年も、1998年で重なったのです。この両者が重なるのは「17Å~13=221」で221年ぶりの事です。今、地球上で、前回重なった時期に遭遇した昆虫学者はいません。当然です。西暦1777年です。その前は、155 6 年、種子島に鉄砲が伝来して1 3 年後の世界です。では、次にこの2匹が出会うのは、西暦2219年です。 何年に一回出会ったかより、この2種類の蝉が交配したら、何年蝉になるのだろうか?世界の昆虫学会の謎です。

実際には、この2匹は交配をしませんでした。(観察の中では・・・・)なぜなら、17年蝉が、早く孵化して地上に出てきて、その次に10日程ずれて、もう片方が孵化したのです。これは前回もそうだったかなんて、誰も知りません。たまたま今回はそうでした。でも蝉の中にも早起きの蝉と宵っぱりの蝉もいるでしょうから、遭遇する連中もいるはずです。それは、どんな種が誕生するのか、誰にもわかりません。謎です。まさか、221年蝉なんかができたら、浦島太郎蝉です。

発想の原点

発想の原点・・・私が最も大切にする事です。人の話を聞いていても必ず、その人の発想の原点を探します。

「何故、その仕事をしたいと思ったのか?」

その発想に原点がないものは、持続力がない・・・と信じるからです。どんなものでも、いつも順調に進むことはありません。山あり谷あり、苦難の連続です。苦難に突き当たったとき、発想の原点がある人と無い人では、はっきりその差が出ます。発想の原点があれば、次の解決策を見つけることができます。他の模倣で、発想の原点がない人は、つぎにまた、他からアイデアを持ってこなくてはならなくなり、持続力がなくなり挫折してしまいます。不遜ですが、その発想の原点は自分自身の足元に必ずあるということを私は信じています。だから、好き嫌いをいわず、今の仕事に精進することが最高の近道であると信じています。

昭和50年代、私はラーメン屋のコックをしていました。私は、家庭の事情で実家のラーメン店を手伝わなくてはならなくなりました。当時はいやいや仕事をしていたといっても良いでしょう。料理を作ってもうまくできない。人に頭を下げる商売なんて大嫌いでした。しかも、油にまみれて汚いし、休みも無く友人たちと遊びに行くこともできない。こんな後ろ向きな考えでは、敏感にお客様にも伝わります。よく叱られました。なぜ叱られているかも自分では判らないのです。

大学では、毎日毎日、顕微鏡で人間の細胞を覗くのが専門で接客なんていうのは夢にも思わない世界です。自分の頭ではどうしても理解できない、別世界なのです。しかも逃げ出す事はできない。 客には、苦情やいやみをよく言われました。これから逃げ回ることしか私にはできませんでした。何を怒っているのか?しかたないだろう。悪気があってそうなったんではないのだからもう許してよ。それが私の本音でした。スープがぬるい。後から来た客に先に料理が運ばれた。髪の毛が入っていた。虫が入っていた。店員の態度が悪い。テーブルが汚れている。きりがありません。もう、嫌になりました。なりたくてなった訳ではない。

ある日、久しぶりの休日。近くのファミリーレストランに行きました。注文したのに全然こない。私は、ウェイトレスを呼びました。「だいぶん前に注文したのにまだ来ないのだけれども・・・・」ウェイトレスは、だまって戻っていきました。しばらくして、そのウェイトレスは、注文した料理を持ってきました。何もいわずブスッとして置いて戻っていきました。私はカチンときて、注意しようとしました。そのときハッと気づきました。これは、まさしく自分自身のことではないか?・・・・ そして、私は「お詫び券」を作りました。

もしも、ご迷惑をおかけしたら、このお詫び券を配ろう。真中で切り取り線があります。下半分には、クレームを言ったお客様のお名前とクレームの内容を書きます。上半分にはお詫びが書いてあります。「本日は大変申し訳ございませんでした。次回お越しになるまでに、今回の件は改善しておきます。今回のお詫びのしるしとして、次回はいくら召し上がっても何人でお越しになっても一切御代は頂戴いたしません。」と書かれてあります。その後、何人かのお客様が再度来店されました。こちらには控えがありますので、誰かがわかります。「○○様、前回は大変ご迷惑をおかけ致しました。」名前を覚えていてくれたということで、ほとんどのお客様は許してもらえました。しかも、この店がはやったのは、私が注意してあげたからだ。」とか「この料理は大変美味しくなった。」とか、そのクレーム客が宣伝を始めたのです。これが判ったのは、かなり経ってからのことです。私の手元にはクレーム客の記録が残りました。

この内容を裏返して読めば、「こうしてほしい」という本音の集大成だったのです。ここには商品開発も販売促進もすべてのヒントが隠されていたのです。最近、これをデータベースマーケティングという言葉で表現されるようになってきました。 「顧客データの本音を汲み取り、いつも新鮮にしておくこと。」ラーメン屋から20年後、私のライフワークとなっていました。

小林一三さん

小林一三(こばやしいちぞう)、私が故郷の宝塚で尊敬する2人目の人物です。宝塚には、宝塚歌劇があります。宝塚歌劇はあまりにも有名です。これを考えたのが小林一三さんです。宝塚歌劇の前には花道といいまして、桜並木があります。この花道の真中あたりにおじいさんの胸像があります。小林一三翁とあります。 子供のころ、昆虫採集でよくこの道を歩いていました。その頃からこの胸像はありました。小林じゅうそう???誰?????私は全く興味はありませんでした。ないどころか、この胸像に上ったり、泥を塗りたくったり、草で作った王冠をかぶせたり、完全に私の遊び道具でした。中学・高校・大学と小林一三は全く記憶の彼方に消えてしまいました。 私が大学を辞めて、実家のラーメン屋のコックになるために戻ってから、彼の存在を意識し始めました。

店が暇になった4時ころ、近くの本屋に立ち読みに行きました。そこに、「アイデアの王様 小林一三」という本があり、何気なく買ってしまいました。故郷、宝塚のことも書いてあるので少し興味をもったのです。しかし、この本との出会いが、私の人生に大きな影響を与えたことは間違いないようです。 小林一三が山梨から出て、三井銀行にはいり、そこからの出向で箕面有馬軌道(みのうありま)という阪急電鉄の前身となる私鉄会社の専務になります。いつもアイデアを考えている人でした。本当は小説家志望の文学青年だったのですがどういう流れか電鉄会社に入ってしまったのです。 私の大好きな小林さんの話をしばしの間聞いてください。

箕面有馬軌道は、ほとんど乗客のいない、田舎の電車です。小林は、その電車に乗客と一緒に乗ってみました。窓の外は、のどかな田園風景が広がります。最初はとても楽しいのですがすぐ飽きてしまいます。すると乗客は退屈で、電車の木枠の木の節を数えたり、うたたねしたりまわりをきょろきょろしたり、なんとも落ち着きません。それを見ていて、小林は「そうだ、社内に広告を張ろう」というアイデアが出て、吊り広告が誕生しました。ついでに駅にも広告看板を立てよう・・・と貧乏鉄道は、副収入を得るようになりました。今では当たり前です。

また、ある日終点の駅に食堂をつくろうということになりました。でもなるべく経費のかからない、しかも回転の速いメニューにしようと名物ライスカレーが誕生します。これは安くてうまいと結構評判でした。あまりにも、食堂が流行ったので、横に日曜雑貨も置いてみました。なべやかん、まな板などです。これも飛ぶように売れました。

小林は、視察に来ました。社員に
「このやかんの値段はいくらかね?」と尋ねました。
「**円です。」
「では、こちらのは?」
「はい。**円50銭です」
聞くたびに彼は、値札を確かめている。
小林は社員にいいました。
「いちいち値段を確かめて非効率的ではないか?それにお客様も値段が全部違うので、予算がたてにくい。ここは、どうだ全商品1円均一にしてみては。損するものもあるが得するものもある。でもこれはこちらの都合だ。お客の立場になって買いやすい環境をつくればどんどん売れる。売れずに在庫をもつことが一番危険なことだ。」
これは、今流行っている100円ショップの原型です。

すでに何十年も前に小林は始めていたのです。 その駅前食堂は流行りました。ある雨の日、乗客が電車から走って、駅前食堂に入っていくのを小林は見つけました。小林は、駅から駅前食堂まで雨に濡れずに行けるよう屋根を作るよう指示しました。するとさらにお客が増えたので、野菜や果物、肉や魚を並べました。そうすると、夕食の買い物をする乗客が増えてきました。小林は、思いきって、この駅前食堂を二階建てにしました。二階では相変わらずライスカレーを売っています。一階では、日曜雑貨や肉・野菜・魚を売っています。やがてこれは4階建てになりました。一階では食料品、二階では、日曜雑貨小間物、3階4階が食堂と、なにかへんてこりんなビルができました。四階の食堂では、福神漬けが食べ放題としました。今の吉野屋の牛丼のようです。そうして、数年後これが大阪梅田にある阪急百貨店となってゆきます。

しかし、まだ乗客が増えません。小林のアイデアはすべて乗客を増やすためのアイデアで本業を絶対に逸脱させません。なにか、家族で遊びにいける催し物をつくろう!ということで、宝塚に動物園をつくり、武庫川という川の川原から沸く温泉でヘルスセンターを作りました。大人二人と子供二人の四人家族で遊びにきても、十分おつりがくるような料金設定にしました。でもまだ、なにか足りません。その頃、高島屋の屋上で少年鼓笛隊というのがあって、子供の男の子たちが、上手に楽器を演奏するショーをやって、たいそう人気を博していました。小林は、これを女の子にさせたらどうだろう。楽器だけじゃなくて、芝居も一緒にさせればなお面白いのではないか?そういうことで、誕生したのが宝塚歌劇です。

最初のだしものは、桃太郎を題材にした「どんぶらこ」でした。めづらしいこともあって、非常に好評でした。この第一期生が天津乙女(あまつおとめ)さんです。 これでも、土曜とか日曜は乗客が増えますが、平日はがら~んとしています。小林はいつも何かを考えています。今日も、車掌の格好をして電車に乗りこみ、手動のドアの開け閉めを手伝っています。周りは何もない田園風景。「そうだ」小林は思いつきました。ここに住宅を建てよう。今は皆大阪市内に住んでいて、この宝塚は行楽地だけれど、きっと将来ここは良い住宅地になる。ここから大阪に通勤する事だってきっとあるに違いない。そうだ、ここに住宅をつくろう。そうしたら通勤客の乗客が増えるはずだ。 小林はさっそく設計にとりかかりました。「空気や水が美味しく、健康に良い田園都市宝塚」キャッチフレーズもでき、宅地造成にとりかかりました。この時から、小林の宅地開発をずっと支えて助けてきたのは、地元の大工の竹中です。彼はやがて竹中工務店をいう日本屈指の土建業を興します。

さらに小林は考えました。これからはスポーツだ。何かスポーツを電車の沿線で開催しよう。豊中(とよなか)という駅があります。そこの旧制豊中中学という学校があり、そこで、全国中学野球大会を開催しました。全国から野球少年がここに集まり、ラジオ中継も入り大盛況です。すでに夏の恒例の行事として定着してゆきました。その後、この全国中学野球大会は、全国高等学校野球大会と名称を変え、豊中グラウンドから甲子園球場へと場所を換え、数多くのプロ野球選手を生み出すことになります。 小林は東京へと進出します。そして出来たのが東京宝塚。これが後の東宝です。そして、戦後、自治大臣となり政界にも担ぎ出されることになります。東急の五島は小林を師と仰ぎ、小林のしたことをどんどんコピーしてゆきました。彼が考えたアイデアはここには書ききれません。しかしすべて乗客を増やすためだけなのです。私が小林が好きなのもこの点です。彼はいつも自分の足元を掘ることしかしませんでした。当時は突拍子もないアイデアだったかもしれませんが、彼流の理屈があったようです。 私は、昭和60年までの10年間、油にまみれてラーメン屋のコックをしていました。その私が読んでとても判りやすかったのです。彼は決して無理をしませんでした。急激な拡大もしませんでした。すべての発想がつながっており、相乗効果を生み出します。

私は、もしもいつか、万に一つでもチャンスがあれば、この2坪の厨房から飛び出して、小林一三さんのように自分自身のアイデアで、お客様に心から喜んでもらえる商売をしたい。そう思ったのを覚えています。いまから20年以上前の話です。