内海新聞 3号

編集長より:いつもいつもわがままな新聞を読んでいただきありがとうございます。左上にいるのは私のマスコットである「穴掘りウサギ」です。「脚下照顧」とは自分の足元を大切にしなさいという意味です。

ベンチャースピリッツ

中学3 年生の時、母が私に言いました。
「私は来週から家を出ます。しばらく帰ってこないかもしれません。だから家の事は兄妹協力して、がんばってやってください。お母さんは来週から台湾に行きます。台湾の中華料理店で住み込みで修行に行きます。納得したら帰ってきます。」「・・・・・」私はびっくりしました。この人はいったい何を考えているのか?

1週間後、出ていきました。本人は前から計画していたようですが、直前まで知らされませんでした。台湾のある大きな中華料理店にコネで入り、洗い場をしていました。厨房では重油に火をつけてゴウゴウと燃えるコンロで手際良く料理をする様を見て大変感動したそうです。あわせて、どこで調べたのか現地の調理学校にも通いはじめ、3ヶ月で免許をとって帰国してきました。この経験が、後に中華料理店を開店するときに大きく役にたったのは言うまでもありません。母はその時40才をまわっていましたし、普通の人なら考えもしない行動です。

母が、台湾にわたって得たものは中華料理の免状と大きな人脈でした。持ち前の明るさから、短時間でしたが多くの台湾の政界や財界の支援者を作ってゆきました。このようなベンチャースピリッツを私は引き継いだのかもしれません。

一芸に秀でる

「一芸に秀でる」ということは素晴らしいといつも私は思っています。「自分の足元を掘る」ということが私の経営理念でもあります。こんな話を思い出しました。 私の妹の友人で大の旅行好きがいます。大学時代は、旅行研究会の部長をしていました。そして、就職の時期がやって来ました。昭和5 3 年。第一次石油ショックから立ち直れない大不況のまっただ中です。彼は国際金融志望です。しかし、金融どころか大半の企業が新規採用ストップの状況です。彼は、苦労してなんとか地元の信用金庫に就職する事ができました。

世界を相手に金融の仕事をしてみたいという彼の夢は打ち砕かれました。毎日、自転車に乗って地元の商店街のお店の両替と積み立てや定期の勧誘が仕事の大半です。辛い毎日が続きました。なかなか新規の口座はとれません。成績も同期のなかでも最下位です。今日も、とぼとぼ自転車を押して商店街へ営業に出かけました。ある文房具店に行ったときのことです。お店の中が騒々しいのです。娘さんと文房具店の店主である父親が喧嘩をしています。聞いていると、娘さんの卒業旅行のことでもめているようです。どうも一緒に行く予定だった友人がこの不況で就職先が決まらずキャンセルになったのです。その娘さんは自分一人でも卒業旅行に行くと言います。父親は初めての海外旅行に娘一人では行かせられないといいます。

それを、聞いていた彼は声をかけました。「●●信用金庫の□□です。その卒業旅行の件、私に考えさせてもらえませんか?私は学生時代に旅行研究会にいまして旅行には詳しいです。ご両親が安心できるツアーを探してきます。」ご両親も、それならということで、プランを待つ事になりました。後日、彼は見つけてきた卒業旅行の企画を提案に行きました。女性だけのツアーで、ホテルも有名な安心できるところ、添乗員もついています。ご両親も「これなら」ということでOKを出すことになったのです。そして、娘さんは喜んでヨーロッパに旅だっていきました。

彼は相変わらず、商店街の営業を続けていました。半月ほどして支店に電話がかかってきました。例の卒業旅行の文房具屋さんのご主人です。娘さんが卒業旅行から帰国して、素晴らしい旅行で大変喜んでいるというお礼の電話でした。そして、今すぐに来て欲しいといいます。彼は、すぐ自転車に乗ってかけつけました。「実は、今年の秋に商店街の慰安旅行が計画されています。その幹事を私がしていますが、その企画からすべてをあなたにやって欲しい。娘の時もあんなに素晴らしいプランを持ってきてくれたじゃないですか。なんとかお願いします。」

彼は困りました。「私は銀行マンで旅行代理店ではありません。それに何十件もの方々と調整して慰安旅行を決めるのは簡単な話ではありませんよ。」そうしたら、文房具屋のご主人は、「わかっていますよ。この慰安旅行は毎年企画されるものでして、皆がとても楽しみにしてます。私は、この旅行費用を全部あなたの銀行で積み立てられるようにしたいと思っています。100件以上あると思いますよ。だから助けてもらえませんか?」彼はびっくりしました。100件もの積み立てを契約できることは快挙です。「判りました。私に任せてください。」

それから彼は一生懸命がんばりました。素晴らしい温泉旅行が企画され大成功に終わりました。それからというもの、彼のもとには、商店街から様々な旅行の相談が寄せられるようになっていきました。もちろんそれにともなって、銀行のお客様も増えていき、成績もいつのまにかトップになっていました。やがて彼は、「●●信用金庫旅行課 主任」と呼ばれるようになりました。今でも、彼のかばんの中には時刻表から旅行のパンフレットでいっぱいです。私は、自分の一番得意な事で頑張るってとても素敵な事だと思いました。第一、姿勢に無理がない。私の素敵な宝物のお話の一つです。

手塚治虫先生

私の出身地の兵庫県宝塚市には、2人の尊敬する人がいます。お一人が阪急の創業者である小林一三さんです。そして、もうお一人が手塚治虫先生です。手塚先生は大好きな方です。小林一三さんのお話は次回ということで、今日は手塚先生のことを話します。いまから40年以上も前のお話です。手塚先生は、宝塚市の御殿山(ごてんやま)というところにお住まいでした。当時、大阪大学医学部大学院の研究室におられたと思います。

私の父は獣医でして、手塚さんの愛犬をずっと診ていました。私の家にも遊びに来られました。「ずいぶん絵の上手な先生だなぁ・・」というのが父の印象だったようです。何枚か色紙をもらいました。まだ、デビューする前の作品です。黒いマントを着た男の人の漫画でした。鉄腕アトムではありません。今考えてみると、「ブラックジャック」という漫画が後に登場しますが、その原型だったようにも思います。何枚かありましたが、私が全部いたずらして破ってしまいました。それから、手塚先生の漫画の作品集も初版本がたくさんありましたが、全部私の毒牙にかかってしまって、現在一冊も存在しません。

テレビ番組の「開運お宝鑑定団」に出展すれば相当な鑑定額になったでしょう。後悔しています。宝塚にはファミリーランドという大きな遊園地がありまして、その中に昆虫館という博物館があります。私は、ここが大好きで随分と通っていました。正門から入ると入場券がいるので、いつも裏の金網から忍び込んでいました。昆虫館には、世界中の美しい蝶やいろんな標本があり、また飼育もしていました。幻のオオムラサキやギフチョウも飼育していました。絶対お目にかかれないムカシトンボの標本もありました。目はらんらんと輝き、毎日飛び跳ねて見てまわったものです。 蝶が好きなのですが、一番興味をもったのはゴミムシです。

その名を「オオヒョウタンゴミムシ」5センチ位の黒い甲虫です。土の中にいる夜行性の昆虫です。なぜ、この虫に興味をもったのか?・・・それは、ある場所にいっぱいいたからです。昆虫採集にいくと、この昆虫だけ大漁です。だから、いつもうんざりの昆虫なのです。ところが、ある日、昆虫図鑑をみていたらその「オオヒョウタンゴミムシ」の事が詳しく載っていました。「大変珍しい昆虫で生息地は海岸沿いの砂浜」とあります。「えっ?!ここは山の中だし、海なんてない。当然砂浜もないのに、掃いて捨てる程いるぞ!」ということで、大研究がはじまりました。

小学校4年生の時です。山でも生息できる種が突然変異で生まれたのか?あるいは異常繁殖は絶滅寸前にはよく起こることなので、これは天変地変の前触れか?想像力はプルトニウムが核融合を起こしてゆくように無限に広がってゆきました。わたしのあだ名は「ゴミムシ」と呼ばれるようになりました。いつも汚い格好をしていたからかも知れませんが・・・・。この研究のために毎日のように、昆虫館に通っていたのです。その昆虫館の館長が福貴(ふくき)先生とおっしゃって、大変お世話になりました。手塚先生も、この福喜先生のお弟子さんです。私は手塚先生とは時間的には遭遇していませんが、手塚先生も子供のころ同じ様に通われたそうです。さしずめ私と手塚先生は兄弟弟子といったところでしょうか。その手塚先生の研究テーマは「オサムシ」です。これもゴミムシの仲間の甲虫です。先生はオサムシが大好きで大好きで、とうとう自分の名前にしてしまいました。「手塚 治虫(てづか おさむし)」そこで、わたしは「内海ゴミムシ」という訳です。そうそう、さきほどのオオヒョウタンゴミムシがなぜ山間の宝塚に大量発生したか?その謎は解けました。

当時宝塚は宅地開発が盛んに行われていて、土砂をあちこちから運びこんでいました。当然海岸から砂も一緒に運んだようです。そのなかにオオヒョウタンゴミムシの産卵地のものも混ざっていたのだろうということになりました。結構、単純な答えでした。それから、私の昆虫熱は沸点に達し、畳一畳分くらいもある大きな標本箱を父につくってもらい、昆虫の標本がその2箱分にびっしり入るくらい集めてしまいました。新聞社が取材にきて全国紙にも載りました。一躍ゴミムシ君は日本一の昆虫少年として町内でも有名人になっていました。

可能性への挑戦

顧客データクリーニングサービスのTACSが誕生して今年で満5年になります。以前も申し上げましたが、これは洗濯屋さんです。顧客情報の洗濯屋さんです。街にあるクリーニング屋さんと同じです。自転車に乗ってお得意先を訪ねて、洗濯物を預かって持ちかえり、奇麗にしてまたお届けする。 ジンテックも同様にお客様の顧客データをお預かりし、クリーニングして有効なもの、無効なものに仕分けてお返しします。

でも、ある日、お得意先から、顧客データを見せるのは嫌だ、というお声が寄せられる様になり、コンピューターを貸し出して先方の社内でクリーニングできる方法を始めました。これはコインランドリーと同じ方式です。もう本当に洗濯屋さんです。この考え方に各国から特許の認可がおりました。実はこれは、技術者のあいだでは、周知の技術で常識でした。だからみんなこんなものは特許にはならないと思っていたようです。彼らと私にはただ二つだけ違っていた点があります。

一つは、彼らはプロで私は素人だったという点です。技術者であるプロの間では常識であっても、私の中では大発見だったということです。 そして、二つ目は、彼らは何もしなかったけれども、私は特許を出願したという点です。これはとても大事な事だと思います。すべてこういう事の積みあげのような気がします。昔からこうだから、これからもこうだ!とかこうあるべきだ!とかいう考え方は私は好きではありません。いつも夢をもって可能性に向かって挑戦し続けることが好きです。 こんな話を聞きました。ある靴のメーカーがアフリカに進出しようと2人の調査員をアフリカに派遣しました。

その中のAから連絡が入りました。
「社長!だめです。誰も靴を履いていません。」
その直後、もう一人のBから連絡が入りました。
「社長!大市場です。まだ誰も靴を履いていません。」
このBさんはアフリカ市場で大成功し、会社に大きく貢献しました。

もう一つ、有名な話があります。 アメリカで小さなリンゴ農園をしていた青年がいました。彼は、リンゴを木箱に詰めて通信販売をしていました。そして、もしも美味しくなければ、代金は全額お返ししますと宣伝しました。仕事は順調に伸びました。ある年の冬はとても寒く、沢山のヒョウが降りました。収穫直前だったリンゴは傷だらけになり全滅です。しかし、すでに通信販売の注文が入っています。このままでは倒産です。彼は一所懸命考えました。彼は、いつもとおり、木箱に傷ついたリンゴを詰めました。そして、1枚の紙を入れました。そこには、こう書かれていました。「このリンゴは傷があります。これはヒョウにあたった傷です。リンゴは寒ければ寒いほど甘みがまします。このリンゴにヒョウの傷がついているのは、寒いところで収穫された証拠です。」このリンゴの苦情はありませんでした。翌年は、なんと、ヒョウの傷付きリンゴを送ってほしい・・・という注文が殺到したといいます。 どんな状況でもあきらめず、夢をもって生き続けることは、なんて輝いているのでしょう。