内海新聞 9号

編集長より:しばらく内海新聞をお休みしておりました。あちこちから新聞が届かないのは送付リストからはずされてしまったのでは?・・・とご連絡をいただいたりで大変ご心配をおかけいたしました。ようやく準備ができましたのでまたお届けできるようになりました。今後ともどうぞ宜しくお願い申し上げます。

心のふるさと(2)

私は大学を中退してしまいましたが、大学1、2年の頃は下宿生活をしていました。あれは2年生の頃でした、私が世話になっていた下宿は別棟で8人が生活するアパートになっているのですが夕食は母屋でみんな一緒に食事をするという寮のようなつくりになっていました。大家さんご家族には高齢で少々ボケが始まっているおじいちゃんがいました。皆、そのおじいちゃんの話相手になるのがいやで夕食は自炊にして自分の部屋でとる者が増えてゆきました。そのうち8名のうち5名は自分の部屋で自炊するようになってしまって、母屋での食事は私を含めて3名だけになってしまいました。私が母屋で食事をしなければならなかったのは、自分の部屋にテレビがなかったからです。母屋での夕食時がテレビを見られる楽しみの時間だった訳です。その事件はある秋の夕食後に起こりました。

例によってわれわれがテレビをみているとそのおじいちゃんがやってきました。しばらくは一緒にテレビをみていたのですが、そのうち独り言を言い出すようになりました。なるべく気にしないでおこうと無視していたのですが、大きな声なのでどうしても耳に入ってきて集中できません。「君達はいいなぁ。私はさっき食べたおかずも覚えていません。今日は何曜日でしたか?」「また始まったな・・・」皆が思いました。

「私は何も覚えていません。君達はいいなぁ・・・私はボケていませんよ。私が18歳の頃の事は覚えています。20歳の頃のことも覚えています。でも30歳の頃の事は覚えていません。40歳の事も覚えていません。50歳も60歳も覚えていません。だから君達はいいなぁ。」私はテレビをやめておじいちゃんに質問しました。

「18歳の今ごろは何してた?」「それはね、今のおばあちゃんと村の祭りで出会った年です。雨の多い年だったなぁ。」「20歳のころは?」「その頃ははっきり覚えてる。それはね・・・」どんどん話します。「30歳は?」「30歳も50歳もわからない。あまり覚えていない・・・」これはどういう事だろう。なぜ君達はいいなぁ・・っていうんだろう?
「なぜ僕達はいいの?」
「それはね、一番楽しい時だからだよ。なんでもできる。今をほんとに大事にすることだ。」
このおじいちゃん、本当にボケているのだろうか?

その後、私はこのおじいちゃんのこの事がヒントで「心のふるさと論」という考え方ができました。人生の中では生まれた場所とは違う、心が出来上がってゆくもうひとつのふるさとがあって、これを「心のふるさと」と名づけました。その人にとっての考え方の基礎でありルールが出来上がる時です。それは感受性の強い18歳~20歳くらいに寝食を忘れて没頭したものがある場合に完成すると思っています。その後の人生で苦しい時に必ずこの心のふるさとに立ち戻ることができ、再び歩み出す勇気をもらえる所です。「あの時も頑張れたんだ。だからきっと・・・・!」

テーブルは裏から拭け

私の20歳代は、中華料理店のコックの10年間でした。その時代は今考えてみれば最高のマーケティングの実体験ができた時期でもありました。たくさんのクレームを頂きこれを解決するために数々の工夫が生まれてゆきました。

こんなことがありました。私の店の常連さんでファッション関係の会社の経営者の方がいらっしゃいました。いつも素敵なお召し物で来店されます。それは寒い冬の日曜日でした。結構お店は混雑していました。4人家族で来られたお客様が丁度帰られたあとにそのおしゃれな経営者のご家族が来られました。今日は真っ白なミンクの毛皮のロングコートを着てこられたのです。丁寧にたたまれて空いている椅子の上にコートを置かれたのです。その時「あああっ」という声でそのコートを見たら、茶色いものが一杯ついていたのです。前にこの席にいた4 人家族の小学生の息子さんはいたずらでいつも何かして帰ります。

今回は酢豚のタレをテーブルの裏側に一杯塗って帰ったようですが証拠がありません。コートのお客様は大変ご立腹で、こんな何百万円もするコートを弁償なんてことになれば大変なことになる・・覚悟を決めましたが、何とか許していただきニシジマという毛皮専門の高級クリーニング店での洗濯代金の数万円で許してもらえました。今回のことは、このいたずらしたご家族の息子さんよりも、しっかりテーブルをチェックしなかった我々に問題があります。そこでできた一つの掃除のルールが「テーブルは裏から拭け」というものでした。目に見えないところこそ重要であり念入りにしなければならないという教訓を得た事件でした。

内海’s Network

昭和60年私はアルバイトではありましたが、31歳で生まれて初めての会社勤めを始めました。

ラーメン屋のコックからの転身です。日本でも最大手の人材派遣の会社でした。新卒の新入社員と同じスタートでした。先輩社員が言いました。「普通、逆だろう?脱サラはあっても、その反対とは珍しい。」まず何も判らない。名刺だけで、パンフレットもなければ商品もない。

しかし、もともとそういう世界に10年間いたので別に苦痛ではなかったです。逆に何でもできるという期待感のほうが強かったのです。やがて方針が決まりました。看護婦という人材を通じたニュービジネスを考えろ・・・というものでした。今、話題の在宅老人介護に関わる会社として設立されました。これを今から10年以上も前に考えたのですから、この会社の先見性は相当なものだと思います。私は大阪の御堂筋を北から南まで1社1社飛び込みで営業しました。営業方法は2つだけであることを指導されました。「落下傘攻撃」と「じゅうたん爆撃」。まずビルの最上階までエレベーターで昇ります。そして、上から下まですべてのオフィスを営業して降りてくるのが落下傘攻撃。次に営業エリアの地図をひろげ、訪問したビルを赤く塗りつぶし地図全部を真っ赤にしてゆく・・・これがじゅうたん爆撃。要は一つも残さず営業してまわる方法です。御堂筋の北から南まで、その地図は真っ赤になり、真っ青になり真っ黒になり、何も見えなくなるほどでした。

それにしても何の反応もなし・・・。それはそうだと思います。「看護婦のニーズはありますか?」といって営業はしていますが、それどうやって商売するかも決まっていなかったのですから・・・3ヶ月程して私は途方に暮れました。「やっぱりラーメン屋のほうが良かったのかなぁ」私にはあまりにも難しすぎる・・・・。大阪の太融寺という歓楽街の公園で朝日新聞の求人欄をぼんやり見ながら、いろいろな事を考えていました。「看護婦急募!」私の目は見逃しませんでした。

「上原学術研究所」「・・・・??」「なんだこれは?病院ではなさそうだし・・・だいたい病院が募集している看護婦は全部夜間勤務。在宅の看護婦はその夜勤ができないから余っているわけで、人材と病院のニーズには差がありすぎる」この財団法人はいったい何なんだ?しかもその住所は「大阪市北区太融寺」。「おいおい、ここじゃないか!」まるで私を呼んでいるようだ。そして地図で調べると目の前にあるこの10階建のビルの8階。何か運命的なものを感じてしまいました。3人しか乗れないようなエレベーターに乗って8階に上がりました。人影がまったくない。何か不気味な暗いビルでした。看板もありません。ドアをノックしました。

「どうぞー。」女性の声がしました。ちょっと安心。「すみません。新聞を見たのですが・・・看護婦を募集されているらしいのですが、私が何かお手伝いできるかもしれません。」私は恐怖感もあってか一気にしゃべりまくりました。ここは企業の健康診断を請け負う会社でした。レントゲン車を会社の横につけて、年に1回実施される結核予防の健康診断です。脈をとり、採血してレントゲンをとって、検尿です。看護婦にとっては退屈な仕事です。募集しても定年退職した高齢の看護婦ばかり、しかもすぐに辞めていく。一方検診の予算は年々下げられて利益がでない状態。そこにこの人材の募集費や人件費が上がってゆきます。私はその現場に遭遇したのです。法律があるので、人材の派遣はできません。「この現場の事務的な業務を全部一括で任せてください。」とっさに応えました。事務管理費が半分になります。この縁で新しいマーケットをきりひらくことができたのです。いったん動き始めたら、後は流れに任せるだけです。私はビジネスニーズを見つけました。そして、私はこの時、ラーメン屋時代の「お詫び券」を思い出しました。「ここも同じだ。困ったところにビジネスが存在する。

内海新聞とウサギの耳・・・

内海新聞は不定期に発行されるわがままな新聞です。最初は社員への内海からのメッセージとして20通からスタートしましたが、社員たちが、お客様先へお持ちしたのがきっかけで部数が増え、現在では発行数1000部を超えるほどになりました。この新聞の内容は株式会社ジンテックを創業する以前から現在に至る間に出会ったさまざまな方々との交流を書かせていただきました。それぞれには含蓄がありすべて現在の肥やしになっているような気がしています。

それから、私のニックネームはなぜ「ウサギの耳」というのか?それはナスダックジャパンに上場した「まぐクリック」の西山裕之社長がまだ学生だった頃私につけたニックネームです。「内海さんのところにはいつも新しい情報が集まってくる。まるでいつもピンと立っているウサギの耳をもっているようだ。」といったのが最初です。それから私はウサギの耳と呼ばれるようになりました。今から15年前の話です。
株式会社ジンテック 代表取締役会長 内海 勝統

内海新聞 8号

編集長より:「なぜこの新聞が送られてくるのだろう?!」と不思議に思われた方も多いと思います。お仕事の関係で以前名刺交換させていただいた方、まだ面識はないけれど弊社の誰かと名刺交換をさせていただいた方を中心に一方的に送らせて頂いております。もしもご迷惑な場合はどうそ送付停止とご連絡いただけますでしょうか?宜しくお願い致します。

インターネットビジネス

今後のインターネット事業を左右する根幹の部分がデータベース事業であると私は確信しています。「顧客情報を支配するものが、インターネットを制覇する」と断言できましょう。今後インターネットでは、顧客の嗜好に合わせたカスタマイズされた製品が提供されていくと考えます。そこで最も重要な威力を発揮するものが顧客情報であるといえます。

弊社は、顧客情報に関連する周辺事業に対してできる限りの投資と事業展開をしてゆく事になるでしょう。弊社は現在、その顧客情報の中で最も手間のかかる、しかも最も重要な顧客情報のメンテナンス事業を展開し、その成功を収めつつあります。顧客情報のメンテナンスとは、せっかく縁あった大切な顧客に対して必ず連絡が取れるよう「顧客ライフライン」を維持する事をいいます。

顧客情報が維持されるという事は、「最適」「最良」の情報が「最速」で届く事を意味します。私はこの事業のコンセプトを「カスタマー・リテンション(Customer Retention)」としました。

つまり、「顧客維持」であります。このCRのマーケティングソリューションを考えることが我々の本分といえます。マーケティングとは「儲かる仕組み」と私は訳しました。事業者も顧客も共に儲かる仕組みを追求してゆかねばなりません。あくまで、事業者からみれば「顧客維持」であり、生活者からみれば「サービス維持」なのであります。ここにマーケティングの真髄であるインタラクティブが成立するのであります。

このように、TACSは自然に生活環境の中に浸透し、水のように必需品になってゆく事と確信しております。

天才学生企業家

大阪に西中島南方(にしなかじまみなみかた)という、どっちを向いているのか判らない様な地下鉄の駅があります。そこは数多くの設立まもないベンチャー企業が集まっている街です。そこに「マイライセンス」という会社がありました。私はある人の紹介でこの会社の経営者と出会いました。彼はまだ大学生でした。一度話し始めると、もう機関銃のように止まりません。とってもネアカの青年でした。私は彼に大変興味を覚えました。

そして、毎日このワンルームマンションの会社を訪問することにしました。ラーメン屋を辞め、人材派遣会社でアルバイトをはじめた直後の事です。ここにきても何もする事はありません。ひたすら観察するという感じです。

このマイライセンスという会社は合宿運転免許の受付事務局をしていました。合宿運転免許講習は費用も安く、期間も短く、手頃ということで結構流行っていました。参加者は交通違反などで免許取り消しになった人が再度免許獲得のために来るところでもありました。彼は参加してみて、毎日退屈なのに気付きました。なぜなら一日で消化できる学科は何時間、自動車に乗れる時間は何時間と決まっていたので、それ以外は何もすることがありませんでした。ある人は将棋をしたり、昼寝をしたり、散歩をしたり・・それでも時間をもてあまします。彼はひらめきました。「そうだ!この退屈な時間を何か別のもので過ごすことができれば、この合宿免許はもっと流行るに違いない・・・と。

それから彼は、免許そっちのけで、周辺にあるテニスコートや、アスレチック、美術教室、英会話教室などなどの施設を調査し始めました。そして、それは営業に変わっていきました。合宿の運転免許にきている何日間に使える施設を契約していったのです。「テニスの個人レッスンを受講しませんか?帰りには運転免許もついてきます。」というキャッチフレーズで学生達の心をとらえました。これを日本信販の月賦で支払えるようにするとさらに、申し込みは増えてゆきました。合宿免許とはそれまで、暗くて退屈というイメージのものでした。 彼は、それを明るくて、格安、しかも短期で、さらに女の子との出会いもあるというイメージに変えてしまいました。そして、業績は爆発的に伸びてゆきました。営業方法は学校の校門前でのチラシ撒きです。しかし、その撒き方は半端ではありませんでした。まず、高校を絞り込みます。大学の付属高校のようなエスカレータ式に進学できる私立高校だけを選びました。彼らは受験勉強をしません。興味があるのは運転免許です。

さらに、各高校の終業式の日を調べて、次の日から入学できるスケジュールをつくり、高校毎のチラシをつくり「○○高校の皆様へ」という合宿免許案内のチラシをつくり、配っていきました。ここまでやると反応は高いはずです。マイライセンスとはそんな会社です。大学生といえどもあなどれないなぁ・・・そんな劇的な出会いでした

役人の反対することはビジネチャンス

今から20年も前の話です。
私がコックをしていた「ふんえん」というラーメン屋のお店に須藤社長という不動産をしている資産家のお客様がいました。彼は先祖から宝塚一体の不動産を所有していて、それを開発し建て売り住宅にして商売をしていました。ある日、須藤社長が私の店にやってきて、いつも通りカウンターの席に腰かけました。須藤さんが来ると私は合間をみて客席に顔を出します。

「マスター。これ何だと思う?」と水筒を見せました。
「何かお茶でも入っているのですか?」私は何となく答えました。
「違うよ。水だよ。水!」何を言っているのだろう。
水なんて何が珍しいんだろう。
「いやね、うちの土地からえらい勢いで沸いたのよ、地下水が。それが美味しい」

当時、須藤さんは宝塚の山手の「ゆずり葉台」という土地の開発をされていました。そこに水が沸いたのです。兵庫県の水質試験場で検査してもらったら、とても良質の軟水ということが判ったそうです。「これを売ろうと思うんだけれどどうだろうか?」水を売るなんて聞いた事がない。せいぜいウィスキーに使うミネラルウォーター位しか記憶にありません。しかし、飲んでみるとほのかに甘くとっても美味しいのです。「須藤さん。これ!売れますよ。美味しいものは必ず売れます。」・・・ということで「宮水(みやみず)ミネラル」という地下水の商品ができあがったのです。

白い1リットルの牛乳パックに入っています。須藤さんはこの水の販売会社をつくり、事業を開始しました。しかしなかなか売れません。当時の牛乳の値段より高かったのです。でもある店だけは売れたのです。芦屋・西宮にあった高級スーパー「ikari(イカリ)」というお店では売れたのです。東京でいう紀伊国屋のようなスーパーです。水を買う習慣のある外国人が好ん買っていました。「須藤さん。もっと知名度を上げるためにバリエーションを広げましょうよ。私はこれでラーメンを作ります。きっと美味しいラーメンができるはずです。札幌には札幌ラーメン、博多には博多ラーメンがありますが、神戸には南京町という立派な中華街があるのに神戸ラーメンというのがない。神戸といえば灘の生一本。酒といえば宮水と相場は決まっています。だから神戸の宮水ラーメンです。」

そして「宮水(みやみず)ラーメン」は完成しました。宮水とは、地元に昔からある名前で、日本酒をつくるための良質の水の名称です。 日本の名水100選にも選ばれました。西宮というところでたくさん沸いたので、この宮をとって宮水といわれるようになりました。宮水ラーメンは持ち帰り用です。麺やスープがすべてパックに入っています。そしてこの麺やスープの製造にこの宮水を使ったのです。

保健所で許可をもらおうと、でき上がった製品を持っていきました。ポンポンと許可の印鑑が書類に押されていきました。そして、係官が「ところでこの宮水という名前は何の意味ですか?」と尋ねました。私は、言わなければよいものを、宮水の由来と何故これが宮水なのかを説明しました。そうしたら、係官の手が止まりました。「これは許可できません。兵庫県には条例があって、地下水を食品製造に直接使ってはいけないのです。どうしても使いたい場合は水道水と同様に塩素を混入して殺菌してください。」

とんでもない!それだったら何の意味もない。では、近所の豆腐屋は井戸水で豆腐を作っているがあれを止めさせてくれ。神戸三宮駅前の「にしむら」というコーヒー店は菊正宗の醸造用の水でコーヒーをたてて、たいそう繁盛しているがあれも営業停止にしてくれ!・・とかみつきました。もしも、あなたが絶対だめというのなら、貴方の名前で「未来永劫、地下水を食品製造に利用することを許可しない。」という念書を書いてほしいと言いましたが、役人がそんな事をするはずがありません。結局保健所では判断できず、県庁に話があがりました。2ヶ月位すったもんだあって、結果は条例遵守ということで私に製造販売の許可はおりませんでした。私は法律だから仕方ないとあきらめました。

するとハウス食品の浦上さんという社長が尋ねてこられました。須藤社長と私は何ごとかと思いました。
「状況はよく調査させてもらいました。このあとはハウスにやらせてもらえんやろか?」
「え?!社長!でも条例があってなかなかできませんよ。」
「なぁに、条例なんちゅうのは、都道府県が勝手につくっているもんや。条例のないところで売ればいい。ただしテレビコマーシャルは全国で流すで。条例は大衆が変えていくもんや。まあ見ててみぃ。」

数ヶ月してテレビで「六甲のおいしい水」のコマーシャルが流れはじめ、自然水の大ブームがおこりました。私は、この時悔しいとは思いませんでした。何か逆に嬉しい気持ちになったのです。商売ってこういう風にするんだ。そして、なによりも、私にはひょっとして、何か新しいものを考える事に向いているのかもしれない・・・・自分を発見する良い機会になりました。ちなみに神戸市は2年後、条例を変え、株式会社神戸ウォーターという会社を設立して自然水の販売をはじめました。

教訓・・・「役人が反対することにはビジネスチャンスがある。」

内海新聞 7号

スコップを持ったウサギがいますが、これを「穴堀りうさぎ」といいまして、私のキャラクターです。私の経営理念が「脚下照顧」です。よく禅寺の下駄箱に書いてある言葉です。自分の履物はちゃんとそろえなさい・・・という意味でかかれていますが、実際は違います。自分の足もとを掘るということで私は理解しています。自分の足もとにはたくさんの宝物があるように思います。

他にも灯台元暗しという言葉もあります。足もとに隙があるという事でしょうか?とにかく、自分のひとつの才能を研ぎすますために一点集中でひたすら極めるという意味で理解し、私にとっては大切な言葉です。この話をイラストレーターの平松尚樹先生に話したら、「う~ん、それは穴堀りうさぎだな!」といって、このイラストを作っていただきました。もしも著名な物理学者と、この道50年という下駄職人がばったりどこかで出会ったら、この二人はきっと話が合うだろう、と平松さんは言います。

「お互いの話は専門的で判らないかも知れないけれども、それぞれの場面でいろいろな決心を繰り返して生きてきたに違いない。一つのことを極めた人には、それぞれの決心につかう共通のものさしをもっているものだ。そのものさしはどんな時にもつかえる万能のルール。だから、このふたりはそういうところで話が合うものなんだよ。」・・・と。

心のふるさと(1)

私は中学のときは、よくいじめられていました。
理由はないのです。いじめやすいタイプなのでしょう。何も抵抗しなかったですから。

ある日、いつもと同じように下校していました。毎日通っている道なのにその日だけ、ある看板が目に飛び込んできました。
「金剛禅総本山少林寺」
「・・・・・??」「なんだあ?これは」
そのまま家に帰りました。家に帰るといつもどおりテレビを見ていました。
「明日は君たちのもの」NHKで毎週放映している全国の取材番組です。「少年黒帯拳士」その日のテーマでした。中学校3年生で武道の初段の黒帯になった少年の取材番組でした。
「金剛禅総本山少林寺」
これは、今日見つけた看板と同じじゃないか。またしてもシンクロニシティー。僕と同じ中学生が黒帯になっている。けんかに強くなりたい!毎日いじめられてたまるか?私は、その看板のお家を訪問しました。そのお家の方は先生ではなく、新たに道場を紹介してもらいました。そして見学に行くことにしました。

学校が終わって、公民館にある道場に行きました。早く着いたので3~4人しかいませんでした。全員黒帯です。剣道の胴をつけて、それをおもいっきり蹴っています。もの凄い音が響いています。そしてその胴が2つに割れたのです。私は恐ろしくてここに来たことを後悔しました。

しかし、一人だけひたすら道場の床を雑巾がけをしている坊主頭の人がいます。この人も黒帯ですが、まだ高校生くらいです。もの凄い勢いで端から端まで雑巾がけをしていました。
「黒帯でも歳下の者はやはり雑巾がけなんだ。・・・・・」7時になるといつのまにか大勢の弟子たち集まり道場がいっぱいになりました。
「ドーン!ドーン!」大きな太鼓が鳴りました。舞台に向かって全員整列して先生を待っています。

私は、びっくりしました。さっきまで一生懸命雑巾がけしていた高校生が舞台に駆け上がったのです。全員がその人に向かって合掌礼をしています。彼がこの道場長であり、当時日本最年少の師範だったのです。練習が終わるまで後ろで椅子にすわって見学しました。人が宙に投げ飛ばされ、女性が腕1本で大男をねじ伏せる。先生が手とり足とり教えて回ります。練習が終わって、先生が走ってやってきました。先生はひざまづき、同じ目線で私の目をじっと見ました。1分くらいじっと見据えました。

そして、私に言いました。
「お前は絶対強くなる。」・・・と一言。
そして「一緒にやるか?」
「はい!」短い会話でした。

梛木正男(なぎ まさお)。その時21才5段。私の生涯の師匠となる人との出会いの瞬間でした。私が13才中学2年生の時でした。私は其の日から30才まで少林寺への道が続きました。

師匠は、私に自信と勇気を与えてくれました。私は入門から5年後、大学に進み関東学生医歯薬連合大会で団体総合優勝。そして支部長として道場を興し弟子の育成のためプロとしての活動がはじまったのです。この少林寺の修行時代が私にとっての「心のふるさと」となりました。いくつになっても忘れえぬ自己探求の時期、そして人生の不変のものさし・ルールを見つけた時代を「心のふるさと」といいます。

困難な事にぶつかった時、目を閉じてこの「心のふるさと」にたち帰ったとき、その答は必ず見つかるものと私は学びました。しかし、その恩師も31才の歳でこの世を去りました。

金儲けのコツの伝授(1)

私は、ラーメン店とは別に、朝の3時30分から卸し売り市場の八百屋で働いていました。20代のころです。卸しに勤めだして1 年くらいたったころ、高尾商店というネギ専門の八百屋のおばあさんから声をかけられたのです。その人は60才くらいだったでしょうか?
「兄ちゃん。感心やなぁ。よう続くなぁ。眠いやろ。毎日あんたのことを見てるけど1日も休まんと来てるな。早起きできて偉いで。普通は1 週間ももたんけどなぁ。」
「ご褒美に金儲けのコツを教えてあげよう。」
金儲けのコツ?そんなものあるのかなあ??

「兄ちゃん・・・何やと思う?」
そりゃぁ早起きは三文の得!・・・というから、やっぱり早起きでしょう。
「早起きは、アホでもできるんじゃい。子供でも遠足の日は、目ざまし時計が鳴る前に目を覚ます。おとうさんでもゴルフの日は、一人で勝手に起きて出かけて行くやろ?早起きは精神力でできるもんや。」

・・・今、早起きして偉いで・・・って言うてたやないか!
「それはな・・・早く寝る事がヒントや!」
「これは精神力では不可能や。いつも12時に寝る人が8時に布団に入っても、結局目が冴えて12時まで眠れない。早く寝る事は習慣なんや。毎日毎日、早く布団に入るようにして習慣にしていかなできん。」
「早く寝たら、お金がかからんやろ。金儲けのコツはお金を使わんことや。」
「それから、午後6時から後のお金は無駄な金なんや。それは使わなくてもても生きて行ける。午後6時から後は、お金を使わんようにすることが金儲けの近道や。よう覚えとけ!」

「・・・・・」もうこてんぱんです。でも、この高尾のおばあちゃんの言葉は教訓として今だに良く覚えています。ちなみにこのおばあちゃん、いつも自分の腹巻きに数百万円位巻いていました。「銀行は信用できん。」・・・・と。

金儲けのコツの伝授(2)

この高尾のおばあちゃんの店から15m位離れたところに畳半畳程のスペースに七厘で餅を焼いて商売をしているおばあちゃんがいました。メニューは餅のいそべ焼きと牛乳だけです。

当時焼き餅と牛乳で200円位だったと思います。でも、市場に来るお客は皆ここで餅と牛乳を買って、片手に持ちながら買い物をしています。もう毎日大忙しです。毎日3~400個は売っていたと思います。大きな牛乳瓶のケースや餅の箱がどんどん空になっていきます。

「おにいちゃん。商売いうもんは畳半分あったら十分できるもんやで。私を見てたらよう判るやろぅ。」いつもそういって自慢していました。私の、この卸売市場の生活は大変つらいものでしたが、商売のヒントや営業のヒントを数多く私に与えてくれました。1分おきに値段が下がってゆくすさまじい世界です。このなかで商売をしてゆきます。スピードの商売です。その場その場で瞬時に判断して値決めをしてゆきます。お客の八百屋は小学生くらいのときからこの問屋に顔を出しています。

もう二代目三代目というのはあたりまえでした。ですから双方の手の内をお互い知り尽くし、その上で安く買おう、高く売ろうと毎日毎日しのぎを削っています。間近でそれを見て、自分の商売の甘さを大いに反省しました。そして、今の私のビジネスの基礎になっています。

内海新聞 6号

私と下田社長とふたりで赤坂見附の歩道橋を渡っていました。1996年の春でした。私は「板倉は頭がいいなぁ。彼の考えたハイパーシステムは良くできている。それにくらべてこっちはどうだ。1円玉をせっせと集める商売だ。差をつけられたな。」そうしたら、すかさず下田社長は「そんなことないです。内海さんの方がはるかに頭がいいですよ。我々のしていることは彼らとは格が違います。我々は金儲けではなく、産業を興すのですよ!」「そうだった。申し訳ない。」 次のシステム開発のアイデアに行きづまっていた私はまたこれでよみがえりました。

板倉雄一郎君は、当時インターネットの画面に広告画面をつけ、接続料金を無料にするというアイデアのハイパーシステムというビジネスで注目を浴び、世間を騒がせていた人物でした。その翌年のニュービジネス大賞をとり、もう飛ぶ鳥を落とす勢いでした。負けん気の強い私はいらいらしていました。その点、社長の下田は冷静です。大丈夫!勝利は我が手中にあり・・といつも平然としています。しかし、そのハイパーネットは、97年12月24日に倒産してしまいました。今、「社長失格」という本を書いて、また注目をあびています。

サンリオの奇跡

私がラーメン屋のコックをはじめて何年かしたころ、友人から、この本は面白いから読んでみたら・・・ともらった本があります。

「サンリオの奇跡」PHP出版。キティちゃんをはじめ、数多くのキャラクターを世の中に送り出したサンリオの創業当時のノンフィクションです。最初、あまり興味がなくて読みませんでした。読む時間もありませんでした。なにせ、そのころは起床は午前3時30分。4時から西宮にある卸売市場の八百屋で9時までアルバイトです。すぐに仕入れをしてダッシュでラーメン屋の店に帰って仕込みをします。10時30分に開店でそのまま午後9時30分まで立ちっぱなしです。10時から11時30分まで、県立川西高校という定時制高校の体育を教えていました。直に帰宅して12時に就寝というのが私の毎日の日課でした。

ある日なにげなく、そのサンリオの奇跡を読み始めました。わたしは引き込まれました。社長の辻さん。専務の荻須さん、常務の友近さんの3人の人物が運命の出会いをして、サンリオという会社を巨大にしてゆく話で、全部取材に基づくノンフィクションです。いつか自分もこんな運命の出会いを体験して、もっと大きな世界で勝負してみたい!私の感想でした。その後10年間で何十回も読みました。

この中に登場する常務の友近忠至さんに大いに興味をもちました。不可能を可能にする男、システム・コンピューターの神様・・・あこがれました。その後、何十人という方々にこの本の話をしました。「すごいでしょっ」って・・・平成5年。その本を手にしてからすでに15年近く経っていました。ある情報関係の会社の会長と夕食をすることになりました。人形町のすきやき屋でした。あいかわらず話題の乏しい私は、サンリオの奇跡という本の話、友近忠至さんの話をしていました。

1時間しっかり私の話を聞いてくださったその会長は、
「わかった、わかった。もういいよ!その友近さんは私の兄貴分にあたる人だ。引きあわせてあげよう!。」私は耳を疑ったのです。あこがれてはいましたが、雲の上の方。お会いできるなんて夢のような話。チャンスがついに来たのです。

「よろしくお願いいたします。」 数週間後、銀座の料亭で友近さんとお会いしました。何を話したか覚えていません。私にとっては雲の上の方です。最後に私は、ぼろぼろになった「サンリオの奇跡」という本をお見せしました。10年以上読み続けた私の宝物です。友近さんは、この本を見てびっくりされました。「ここまでするとは・・・・・・」これが縁で友近さんはジンテックの会社の株主、役員となっていただきました。これまで関わられた、お仕事や人脈をお側でOJTのように伝授いただくことになりました。 何十年も前の話が、今でも十分最先端の発想として通用してゆくところに、私は驚きました。私との共通点も多く、今では毎週のように様々な相談にのいっていただけるようになりました。

私の目標はゴルフで友近さんに勝つことですが、これがまた上手なんです。まだ、先は長そうです。ちなみに友近さんは今年72才のうさぎ年です。またまた、ウサギに縁があったようです。

就職専門のテレマーケティングサービス

1988年にジンテックは産声をあげました。
当時は大学生の名簿のブローカーのような仕事をしていました。あちこちから買い集めた学生名簿を企業の人事部にレンタルするという仕事でした。 これは完全に成熟した市場で価格競争になっていたのです。みるみる見積金額は下げられて、売上げはあっても利益がないというのが現状でした。競合も環境は同じです。結果、仕入れを安くして、値下げに備えるといった事をするしかありません。あまのじゃくであり、この業界の素人だった私は
「こんな馬鹿な話はない。みんなに役に立つ仕事をしているのに、なぜ、皆、足の引っ張り合いをして、自滅の道に進んでゆくのか?」

競合はいかに安く売るかを考えている。だったら、私はいかに高く売るかを考えよう。名簿といっても、宛名シールを提供するだけじゃないか?このラベルには、郵便番号と住所と宛名だけが印刷されている。これを10円とか12円とかで人事部は購入している。でもこの本人が何を考え、今何をしていて、どういう活動をしているかなんてまったくわからない。これだと企業は、不渡り手形を買うようなものだ・・・・! この1枚1枚の宛名ラベルの本人たちがどういう人物で、何を希望し、今どんな活動をしているかを全部調べてやろう。これが付加価値というものだ!そうして、就職専門のテレマーケティングサービスは誕生したのです。

じかに本人に電話して、希望を尋ねそれにそった企業の情報を与えるのです。企業にとっても、自社を希望する学生だけが集まればこれほど楽なことはありません。 たった1枚15円の宛名ラベルでしたが、その企業を希望する学生に絞り込む事により、1件2000円から3000円に跳ねあがりました。他の競合とはまったく逆の道を歩き始めました。すべてはここから始まったのです。日本で初めての就職専門のテレマーケティング会社の誕生です。1989年平成元年の事です。

私の実験室

子供の頃、自分の実験室をもっていました。・・・といってもそんな部屋がある訳でもありません。

阪急電車の踏切が私の実験室でした。私の家の近くの阪急電車の踏切で「バラ園の踏切」というところがあります。すてきな名前なので忘れませんでした。その踏切の前が高島屋の配送所になっています。その高島屋の配送所の裏手が空き地になっていて大きな砂山がありました。

かばんをその配送所に置いて夕方までそこで遊んでいました。釘を持ってきて線路の上に十字に置いて手裏剣を作るのが得意でした。裏の砂山は自然観察の場所です。この砂山の中からオオヒョウタンゴミムシを発見しました。このゴミムシの話は以前に書いたとおりです。今でもたまに実家に帰る時、阪急電車でこのバラ園の踏切を通過する時、その頃に瞬時にタイムスリップするのが不思議です。男の子としてとても純粋な時期だったのかもしれません。

以前、アメリカの映画で「スタンドバイミー」という映画がありました。男の子たちだけで冒険の旅にでる映画ですが、大好きな映画の一つです。音楽もいいです。男の子には一生の間で女性の影響を受けない時期があって、それがあのスタンドバイミーや私のバラ園の踏切なのかな・・・と思ったりします。」母親からようやく気持ち的に自立し、そしてまだ恋をしていない時期。とても純情で純粋な大切な時期・・・。

手羽先のから揚げ

私の作る料理の中で、すこぶる評判が良いメニューがあります。それは「手羽先のから揚げ」です。「テバカラ」といいます。このヒットメニューの裏話をすこし聞いていただけますでしょうか?

ラーメン屋の厨房に入って最初にする仕事はスープづくりです。私は、トリガラと豚骨、そしてたまねぎなどの野菜でダシをとります。トリガラはお湯でしっかり洗って血を抜きます。このトリガラは近くの鳥肉屋さんから10キロ単位で買うのですが、たまに手羽先が紛れ込んできます。

最初、この手羽先もダシをとるために一緒にズンドウの中に入れていました。そうしたら、この手羽先が一番最初に溶け出し、黄色い油は浮くわ、もろもろになった手羽肉が溶けてスープが濁ってしまうわで大変なことになりました。結局それから手羽先は最初から抜き取って捨てるようになりました。いつも手羽先だけは違う袋に移しかえる作業がでて、仕事が増えてしまいました。

ある日のこと、アルバイトたちの「まかない(従業員の食事)」のネタが尽きてしまって困ってしまいました。毎日おなじものだと可哀想だし何か簡単なもので他にないかなぁ・・・と考えていたとき、横にたくさんの手羽先がありました。どうせ捨てるんだし、まかないで使えないかな・・・と考えて唐揚げにしました。これだけでは美味しくないので焼肉のタレにつけて味付けしました。それがどうでしょう!いままで食べたことがない味でとっても美味しかったのです。従業員ももっと欲しいもっと欲しいと催促する始末。それを見ていたお客さんが、こっちにも欲しいということになり、恐る恐る出しました。これが大評判になり口コミで広がってどんどん注文が来るようになりました。店を辞めた今でも注文が実家に入ります。母は、特別に作って届けたりしていますが、最近これで商売はじめようかなぁ・・・とまた言い出しています。。

私は、東京で年に1~2回だけオープンする「快食亭」という中華料理をふるまう会を開催しています。そこでもなぜか評判が良く、これを目当てに参加されるお客様もいらっしゃいます。先日も50名のお客様でしたが、250本ものテバカラを用意しましたが、ものの10分で全部売り切れてしまいました。う~ん、やっぱりこのテバカラにはまだ商売の神様が降りているのかもしれません。

商売の神様が降りている間は、まだまだ商売につなげることができるはず・・・な~んて、余計なことを考えてしまいます。でもこのテバカラは1本50円で6本セット300円で売っても相当儲けがあります。もともとゴミですから・・。でもこのテバカラ6本で必ず生ビールが2杯でます。生ビール1杯450円ですから2杯で900円。一人約1200円以上の売上げを稼いでくれる、メニューの優等生となりました。

内海新聞 5号

宝塚

私は宝塚に生まれ育ちました。今では、ベッドタウンとして発展していますが、昔はのどかな田舎町でした。温泉・芸者・歌劇・川と山並み・美味しい水と空気。そんなイメージです。

兵庫県の東寄りにある街です。昭和29年、私の生まれた年に良元村から宝塚市に昇格になりました。街の真ん中に武庫川(むこがわ)が流れ、その周辺には温泉旅館が建ち並びます。宝塚歌劇の隣にはファミリーランドという遊園地があります。宝塚はオリジナリティーあふれるところです。宝塚歌劇というのは世界で初めての女性だけのミュージカルです。

手塚治虫さんは日本人に漫画の晴らしさを教えてくれました。小林一三さんは阪急電車をつくり、そこに日本初の様々なアイデアを盛り込みました。子供のころは何も考えずに、普通にその環境の中に育ってきたのですが、やはり、何か目に見えない影響があったのかもしれません。歌劇もあまりにも身近で普通の事として受けとめていました。歌劇の女優さんたちを、地元では「歌劇の生徒さん」と呼びます。生徒さんたちの上下関係ははっきりしていて厳格です。はるか何十メートル先に先輩がいたら、必ずそこで「気をつけ」の姿勢で直立不動です。そして深々とお辞儀をしてあいさつをします。これは今でもそうです。先輩と識別できなくても、なんとなくそんな感じ・・・でも同じです。もし、挨拶を忘れたり、無視したりすると、あとで必ず叱られるので、誰でも似ていたら挨拶するのです。

私の妹は長身でしたので派手な格好をしていたら、あちこちで、生徒さんの挨拶の嵐でした。また宝塚のファンは、スターと同じような格好や髪型をして、生徒もどきのスタイルで歩いていますので、新人の生徒さんは、まぎらわしくて大変だと思います。阪急今津線の宝塚南口駅に私のお店「芬苑(ふんえん)」はありました。ある雨の日、駅前の郵便局にはがきを買いにいった時です。雨が突然激しくなってきて立ち往生している歌劇の生徒さんがいました。
「すみれ寮までですか?」
「じゃぁ、すぐそこですからこの傘に入ってください。送ってあげます。」
「すみません。ありがとうございます。」
私は300mくらい先にあるすみれ寮まで送ってあげました。
とても綺麗な生徒さんでした。
「お名前はなんといわれるのですか?」
「本名ですか?」
「いえ、本名ではなく舞台の名前です。」
「はい、涼風真世といいます。」
「きれいな名前ですね。きっとトップスターになりますよ。」
・・・何気ない会話でした。

それから数年後、涼風真世さんは、ベルサイユのバラで主役を演じるトップスターになっていきました。今でも時々サントリーウィスキーのコマーシャルでお見受けするたびのその時の事を思いだします。また安奈淳さんは黄色のミニクーパーに乗っていました。それを見て私もミニクーパーが欲しくなりました。そして、お金もないのに無理して購入したことがあります。オレンジ色のミニクーパーでしたが、毎月1週間は故障で修理工場に入院しているポンコツでしたが一番好きなクルマでもあります。

コーポレートアイデンティティ

私がまだラーメン屋のコックをしていたころです。昭和56年ころでした。店を改装する事になりました。私は、店が一目でわかる何かマークが必要と考えました。そのマークをあしらうことによって、だれでもお店を認識できる・・・いわゆるCI(コーポレートアイデンティティー)です。ある日、店がちょっと暇になった時間に、通信販売のフジサンケイディノスのカタログを見ていました。その中に輝く1枚のイラストがありました。少年少女の絵で、色づかいが素晴らしいのです。そしてにこにこして、とにかく暖かいのです。「これだ!」一目で気にいりました。ディノス社に電話して、何ページのイラストを書いた先生を紹介してほしいと電話で頼みました。幸いに快く教えていただけたのです。

その方は平松尚樹先生といい大変有名なイラストレータの先生だったのす。「はじめまして。私は宝塚というところでラーメン屋のコックをしています。先生のイラストをある雑誌で見つけてから大ファンになりました。今度店を改装することになり、是非先生に書いていただいたイラストを店のデザインに使いたいのです。」「あっそう。いいよ。書いてあげる。何かお店のイメージの解るものを送ってくれる?」「・・・・」あまりのあっけなさにびっくりしました。私は悩みました。店をイメージできるものなんて何もありません。こまったなぁー・・・考えた挙げ句、店で良く売れていた豚饅を箱につめて送りました。私の豚饅は包み方が変わっています。普通のように丸くないのです。皮を伸ばしてギョウザのように包んでいきます。だから私の豚饅は握り拳くらいの大きなギョウザです。平松先生は、そのギョウザのような豚饅をもって空を飛んでいる男の子と女の子のイラストを1週間後に送ってこられました。そのイラストは、店の箸袋や包み紙そしてメニューなどあちこちにあしらわれ、素晴らしいお店になりました。 この時の1回の電話だけの縁で、その後7年間お会いすることもありませんでした。私は昭和60年に店を辞め、昭和63年に上京しました。そうだ、不義理を重ねている平松先生にお詫びをしよう。

私はたった一回の電話だけでお顔も知らないのです。私の勝手な都合だけで無理をいっていました。しかもお金はいらないといわれて、お支払いもしていません。勇気を出して事務所に電話しました。「もしもし、以前、私の勝手でイラストをお願いした・・・・」と言いかけたとたん「あっ、内海君?そうでしょう内海君でしょう?会おう会おう。ビールでも飲もよ。」驚きました。私と直に判ったそうです。先生ご自身でも不思議だと言われました。「なぜだか、声を聞いてすぐ判ったんだよ。」7年前に一度だけ電話しただけなのに・・・・これを縁に平松先生は私の師匠のお一人として現在に至るまでおつきあいいただいています。今の私の名刺の左肩にあるイラストも平松先生の作品です。年賀状やご挨拶カードもすべて平松さんの作品です。いまでは、ふたりで銀座のビアホールをはしごしたり、ゴルフをしたりと遊んでいただいています。

情報料課金サービス「ダイヤルQ2」

ここは厳粛な抽選会場。私は仕事があって会場には行きませんでした。アルバイトの林君を様子を調べさせるために会場に派遣しました。当時私の会社はこの林君という学生のアルバイトと私のふたりきりでした。私は、この林君にその後、何度も助けられることになるのですが、この話はまた後日。その日、NTTが、電話料金とは別にその情報料もいっしょに回収してあげるという「情報量課金サービス」今のダイヤルQ2の使用権を与えるための抽選会が行われたのです。

林君から電話がかかってきました。
「内海さん、あのぉもう帰っていいですか?なんか会場が騒然として、とってもヤバイ状況です。今、抽選が行われていますが、1番目の抽選で選ばれたのがジンテックなんです。」
「やったぁ!それで?」
「それで、2番目もジンテックなんです。いま50番目くらいなんですが、ジンテックなんです。ほとんどジンテックです!!!」

昭和58年私は兵庫県宝塚市のラーメン屋のコックでした。(実は私は、昭和51年から昭和60年の10年間、ラーメン屋のコックをしていたのです。)たまたま休みの日に尼崎の塚口にある西武百貨店に遊びに行きました。そこは「つかしん」という複合ショッピングセンターでした。

5階の家具売り場を見ていました。そうしたら後ろからある中年のおばさんが声をかけたのです。「これ、どう思います?私が設計したんですよ。」この方が後に私のひとつの運命の鍵をにぎろうとはその時には夢にも思いませんでした。この女性は福岡出身の主婦でした、当時50才くらいだったと思います。
「私は家具やこのようなキッチンを見るのが好きで、良く来るんですよ。私はラーメン屋のコックをしています。内海といいます。」
「そうなの?立派なお仕事です。どちらでされてるの?」
「はい、兵庫県の宝塚市です。」
「えっ?私も宝塚に事務所があるのよ。宝塚のどのあたり?」
実は、私の家と目と鼻の先にその女性の事務所はありました。この会社をアトリエ・ミセスといいました。

そしてその方の名前を八田玲子さんといいます。福岡にお家があり主婦なのに、単身赴任で宝塚に来られていました。設計士の彼女は長谷川工務店の顧問をしていました。 それから私は、度々彼女のお家を訪問することになるのです。実は彼女は大変な発明家だったのです。わたしは、この八田さんに発明や特許の実戦的なことを学びました。祖父からの基礎があったので、理解力は早かったと思います。

ある日「内海さん、いい方を紹介するわ。大伴さんといって、ボイスメールの会社にお勤めの方です。」ボ・イ・ス・メ・-・ル?????なんだ?それは?初めて聞くものでした。「アメリカで流行っているもので、留守番電話の大きいものと思えばいいわ。」ますますわからない???しかし、この大伴君が私の次の運命の鍵を握ることになりました。私は、大伴君からボイスメールの仕掛けや市場性を細かくレクチャーを受けました。ただ、実際にどうすれば有効に使えるのかはよく判りませんでした。

私は、その翌年、パソナグループの関連会社で勤める事になり、10年間勤めたラーメン店を辞めることになったのです。大阪本社に3年いた後、私は東京に異動となりました。東京に着任して、すぐに大阪の例の大伴君から電話がありました。「優秀な人を紹介するよ。山田さんといって、東京理科大学を出たあと、東京外国語大学に再入学して語学を勉強した通信のわかる人物です。きっと内海さんと気があうと思うよ。」その言葉通り、私は山田さんとは気があいました。いろんなアイデアの話をしました。「内海さんね。いいこと教えてあげる。実は今度NTTが情報料課金サービスというものを始めるんだ。電話代金とは別に、電話で流す情報の代金も一緒に回収してくれるサービスなんだ。アメリカではすでに900番サービスといって定着しているものなんだよ。」「へ~、よく判らないけれど、面白そ~。」「それがね、東京03区域だけで、テストがはじまるんだ。しかもその権利は公正に抽選で選ばれるので、絶対に申し込みだけはしておいたほうがいいよ。何に使うかはあとで考えればいいのさ。」 私は、九段のNTTに尋ねにいいきました。「今度、情報料課金というのが始まるらしいのですが・・・」でも九段局の誰も知らない。すると奥から別の人が「これじゃないか?」といって、封も開けていない茶色の大きい封筒を持ってきたのです。「これこれ、これです。この申し込み用紙を1枚ください。」「いいよいいよ、こんなもの、全部もっていきな。」といって封筒ごともらって帰ってきたのです。中には何十枚か入っている。例の林君とどんなサービスがいいか考えましたが、たかが知れています。 アルバイト情報。積雪情報、今日の献立情報、・・もう終わりです。「でも待てよ、通信法というのがあってNTTは電話の内容まで干渉はできないはずだ。」私は勝手にそう思いました。内容は適当に書いていいから、とにかく都内03区域の電話局にいってかたっぱしから申し込み用紙を集めて独占しまおう。そうしたら、抽選があってもへっちゃらさ・・・申し込み用紙で机の上がいっぱいになりました。 そして、この抽選会でした。東京のほとんどのダイヤルQ2の利権を一夜にして手に入れたのです。その後、わたしは、この権利をある人物にすべて譲渡しました。興味はあったのですが、何故か乗り気がしなかったのです。しかし、この時の電話へのかかわりが、後の私の人生を大きく変えていくことになります。

不在の家には電話しない魔法のシステム

私は、その日も新卒学生の就職テレマーケティングを考えていました。学生宅に電話して会社説明会の参加予約をとってゆくのが私の仕事です。ところが困ったことがありました。それは、学生というのは留守が多いのです。でも留守かどうかは、電話してみないと判りません。3件電話しても2件は留守なのです。・・・という事は、電話をかけるオペレーターの2/3は効率的な仕事はしていない。ということになります。なんとか、この無駄を省きたい。

私はこの時ふと思いつきました。学生の名簿に従って自動的に電話をかけるコンピューターというのはできるはずだ。この時、3本の電話回線を一台のコンピューターにつないで、3人の学生に対して同時に電話をかけたらどうだろううか?今までの経験からいけば、この3人のうち1人は電話はつながるはず。つながった学生の情報がコンピューターの画面の出てくるようにすればいいんじゃないのか?あとの2本の電話回線は呼び続けるが10回ベルを鳴らして、でなければ留守と判断して切断すればいい。

もしも、その時さらに誰かが電話に出たとしたら、もう1台のパソコンに転送されてそちらで受ければいい。こういう具合に複数台のパソコンにグルグル回るシステムはつくれるのではないだろうか?このアイデアはどんどん膨らんでいき、プロジェクトチームをつくり自社開発する事になりました。今から9年前、1990年のことです。そうして端末を10台つなぎ、2つのサーバーをもつ電話ロボットがほぼ完成しました。まったくの我流で作りあげたものでしたが、なかなかのものでした。後に知るのですが、この装置をアメリカでは「プレディクティブダイヤリング装置」といってアメリカで最先端のテレマーケティングのコンピュータシステムだったのです。これをきっかけとして、更に電話コンピューターの世界にのめり込んでゆく事になり、後の看板商品「TACS」として花開くことになります。